マルコの福音書を中心に、とくにこの福音書はイエス様の復活についてわずか8節だけの記事を書くことが許されたという前提で、イエス様の復活の真実を教えられてまいりたいと思います。
1.まず、イエス様は、霊のからだでよみがえられたのですから、イエス様の復活は神様が起こされた、霊的な事実であり、人が自然に理解し、誰もが認めるような事実とは異なる出来事であることを覚えたいのです。
イエス様の復活は、肉のからだでよみがえられたのではありません。死人が息を吹き返した、いわゆる仮死状態から蘇生しこととはまったく異なることです。イエス様は、かつて完全に死んでしまったラザロを生き返えらされましたが(ヨハネ11章)、ラザロはやがてまた死がおとずれる、肉のからだで生き返ったにすぎないのです。しかし、イエス様は、霊のからだ(Tコリント15:44b)でよみがえられたのです。新しいいのち、永遠のいのちにおいて、霊のからだでよみがえられたのです。
霊のからだでのよみがえりがあることにつて、人間は、イエス様のよみがえりを通して初めて知った(Tコリント15:20)のですが、生まれながらの人間にとっては信じがたい、受け入れがたいことですが事実であり、人がこの事実を正しく理解し、信じ、受け入れることが出来るためには、神様の力、霊の力による意外には道はありません(Tコリント2:10,11参照)。復活の出来事とは、こういう事実であることを覚えたいと思います。
事実、ペンテコステの日、聖霊を受けた直後にペテロは、こう宣言します。「しかし、神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:24)。ここでペテロが言っている「死」は、肉体の死だけではなく、霊的な死、すなわち、神様との関係を断ち切られ、たましいが地獄に投げ入れられる死、第二の死(黙示録20:10−15)を表しているからです。イエス様は、ご自分を信じる者をこの霊的な死、第二の死から救われるために、霊のからだでよみがえられ、この死に打ち勝たれたのです。
私たちはイエス様を信じて、イエス様とひとつに結びあわされて、イエス様と同じに霊のからだによみがえることの希望に生きています。このことに平安を得て喜び、感謝したいのです。パウロのことばを心に留めたいと思います。
「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。」(ローマ6:9)
2.では、よみがえられたイエス様は、どういう人たちにご自分を現わされたでしょうか。
イエス様の十字架の出来事は、エルサレムの町中で、ローマの為政者、兵隊、ユダヤ教の指導者たち、多くの群衆が見つめる中で裁かれ、処刑され、息を引き取られたことでした。さらに、死後のうわさ―墓に納められたはずのイエス様の遺体がなくなった―もまた、エルサレムの町ではかなりの話題になっていたようです(ルカ24:18)。
ところが、よみがえられたイエス様が、ご自身を現わされたのは、12使徒たちとガリラヤからイエス様といっしょにエルサレムへ上って来た弟子たちだけでした。なぜ、イエス様は、十字架のときと同じように、多くの人たちに復活のご自身を現わされなかったのでしょうか。イエス様は、ご存じでした。その人々がご自分をどう理解しているか、十字架をどのように受け止めたか。みこころにかなうのものではないこと、さらに、イエス様のよみがえりがその人々をイエス様に聞き従う者にすることはないことをです。
イエス様のみこころは、イエス様の戒めを心に保ち、イエス様のことばを守る人、そして、イエス様のよみがえりを証する人たちを見出し、備えられてご自分を現わされることでした。先ほど「招きのことば」(ヨハネ14:21−23)通りです。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。 また、ペテロもはっきり語っていることを心に留めたいと思います。「使徒の働き」(10章40−41節)です。「しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。」
3.マルコの福音書が指し示しているイエス様のよみがえりについて、もうひとつの真実を教えられてまいりたいと思います。
9節の脚注にありますように、9−20節をこの福音書に入れていない新約聖書があります。8節で終わっているとしています。さらに、マルコの福音書は、9−20節を知りつつ、あえて8節で終わらせている、筆を置いたという独創的な理解があります。復活信仰をさらに豊かにするためにこの理解のありかたをもお覚えたいのです。
8節で、女たちは、墓から逃げ去り、だれにも何も言わなかったのでしたが、しかしやがて、墓であった出来事のすべて、とくに墓の中にいた青年が語ったこと、命じたことを弟子たちとペテロに伝えたと思われます。弟子たちは、ガリラヤへ帰る道を歩み始めますが、弟子たちの心を終始占めていたのは、イエス様を神の子として理解し信じることが出来ないまま、ついにイエス様を見捨て逃げてしまった、弟子としての資格など全くない自分たちをイエス様は赦して下さるのかという悔いと不安であったと思います。しかし、弟子たちは、「ガリラヤでお会いできます」(7節)という言葉に力を得ます。
ガリラヤでイエス様は、罪人とされた人たち、病に苦しむ人たち、悩める人たち、イエス様を本当に必要とする人々と交わられ、助け、励まされたのでした(マルコ2:17)。
弟子たちは、自分たちをその人たちのひとりとしてイエス様との交わりとお取り扱いの中に入れていただきたい、という悔い改めと願いに導かれたと思うのです。
ガリラヤに帰り着いた弟子たちが真っ先に行ったのは、イエス様を本当に必要とする人々のところであったでしょう。弟子たちは、イエス様がかつてのように今もその人たちと共におられることを知っていたからです。そして再会したのです。自分たちも、イエス様を本当に必要とする者とされ、赦していただいた確信が与えられたのです。この経験を経て、弟子たちは、復活のイエス様の証人となり、イエス様の福音をガリラヤに宣べ伝え、さらにイエス様が辿られたと同じにエルサレムへと上って行ったと考えられます。
マルコの福音書は、この弟子たちのように切実な悔い改めと願いをもってガリラヤへ行くことなくしては、復活のイエス様をみこころにかなって受け留め、復活の証人なることはないと伝えているように思えるのです。
私たちは、イエス様を本当に必要とする者とされ、よみがえりのイエス様に出会い、赦されてあることをあらためて感謝したいのです。それととともに、復活の証
人としての使命を新たにしたいと思います。
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