礼拝説教要旨(2011.04.24)
イエスのよみがえり =信じられない出来事=
(ルカ 23:44〜24:12)

 十字架への道を歩まれた主は、ゲッセマネで捕らえられ、夜通しの裁判に引き回され、金曜日の早朝から、ローマ総督ピラトの前に立たされ、遂に十字架刑へと引き渡された。人々の嘲りの中、ゴルゴダの刑場へ、自分の十字架を負って進まれた。そして、二人の犯罪人とともに、朝の9時頃、十字架につけられた。人々の嘲りは止まず、「もし神なら自分を救ってみろ」と、ののしりの言葉は激しかった。十字架のイエスの姿は、人々が目を背けるほど、見窄らしかったに違いなかった。けれども主は、その痛みと苦しみを耐えておられた。その最中、犯罪人の一人は、自分の信仰を言い表した。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」彼は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と、御国を約束される幸いに与っていた。

1、主イエスは、十字架の上で、罪ある者の身代わりの死を遂げようとしておられた。その死の目的を果たすように、一人の犯罪人を救いに招き入れておられたのである。そのようにして身代わりの死を遂げるため、主はなおも苦しみと痛みを忍ばれた。決して十字架から降りようとはせず。昼の12時頃から3時まで、全地は暗闇に包まれた。その間、主は苦しみの極みを味わっておられた。そして「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(44〜46節)最後の言葉には、努めを果たし終えた、安堵の心が言い表されている。十字架上で発せられた言葉には、苦悩の叫びもあった。けれども最後は、勝利した者の、父なる神への信頼の言葉であった。これは詩篇31:5と同じ言葉で、神に助けを求める者の祈りである。神を信じる者には、同じように祈る幸いが約束されている。

 最後の言葉が発せられる前に、「神殿の幕は真っ二つに裂けた」と記されている。(45節)神殿にあった隔ての幕が裂けたことは、旧約聖書が定める様々の儀式が、もはや取り払われることを意味する出来事であった。その大きな変化を、神ご自身が成し遂げておられ、十字架の死を境に、神が人々の心を大きく変えようとしておられた。その事実は、十字架のイエスを見上げていた人々の心に、確かな変化のあったことに表れていた。百人隊長しかり、またそこにいた群衆の心が、変わり始めていた。(47〜48節)そして「イエスのからだの下げ渡しを願った」ヨセフも、その心を大きく動かされていた。(50〜53節)主イエスご自身が、父にその霊をゆだねられた時から、次は、父なる神が人を動かし始めておられた。その事実を覚える時、私たちは、神に身を任せることの確かさを知ることができる。(※マルコ15:43「思い切って」)

2、ところが、主イエスに最も近かったはずの弟子たちの姿は、ほとんど見当たらない。遠く離れて立っていた、「イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」は、十字架の死を見届けていたものの、弟子たちのほとんどは、早々と逃げ出していた。(マルコ14:50)アリマタヤのヨセフについて行って、イエスが墓に葬られたのを見届けたのは、結局は婦人たちだけであった。(54〜55節)予め知らされていた十字架であったが、そして三日目のよみがえりが予告されていたにも拘わらず、弟子たちの大半は、敗北感、また挫折感に打ちのめされ、見届ける気力は失われていたようである。婦人たちもまた、慌ただしい葬りを嘆き、安息日の明けるのを待って、もう一度墓に行こうとするだけであった。(56節)

 けれども時は、確実に過ぎていた。弟子たちには、重苦しい、失意の一日となった「安息日」が明け、「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。」(1節)そこで目にしたのは、空になった墓で、「主イエスのからだはなかった。」彼女たちは途方に暮れるしかなかった。彼女たちも、復活を予告されていたが、それを期待することはなかったからである。その婦人たちに、神は御使いを遣わして、主イエスは「よみがえられたのです」と告げておられる。そして、これまでに聞いていたことを思い出すように、確かに「よみがえり」について聞いていたでしょうと、彼女たちの心に語り掛けておられた。彼女たちの心は次第に開かれ、「イエスのみことばを思い出した。」(2〜8節)マグダラのマリヤとヨハンナ、ヤコブの母マリヤ、その名を記された婦人たちが、イエスのよみがえりを信じるように導かれていた。彼女たちは、この出来事を他の弟子たち、とくに使徒たちに話して聞かせている。一生懸命、繰り返し語ったようである。(9〜10節)

3、使徒たちの反応は鈍かった。彼らには「この話はたわごと」と思われ、女たちを信用しなかった。(11節)それほどに「よみがえり」は、不可解で、考えの及ばない事柄であった。主イエスが、ラザロを始め、数人を死からよみがえらせ、病人の癒しとともに驚くべき奇跡を行っておられたが、それでも、イエスご自身のよみがえりは信じられず、考えられなかったのである。死からのよみがえり、復活は、それほどに非常識で、信じられない出来事であった。「たわごと」と言うべきこと、錯乱状態で熱にうなされて発するような話としか、誰も受け留めなかった。十字架の上で死なれたこと、その現実は否定しようのないこと、それは消し去ることのできない事柄であった。しかし、神はイエスを死からよみがえらせ、墓を空にして、イエスが生きておられることを、一人一人、順番のように信じる者に変えようとされたのである。

 使徒たちの中で、さすがにペテロは、事の真相を確かめたいと願ったのか、「立ち上がると走って墓へ」と向かった。(12節)彼が見たのはやはり、亜麻布だけが残された空虚な墓である。彼は「この出来事に驚いて家に帰った」が、やがてそのペテロに、主ご自身が姿を現し、彼を、イエスのよみがえりを信じる者へと導かれるのであった。誰一人、人から伝え聞かされただけでは、イエスのよみがえりを信じることにならなかったようである。すなわち、よみがえりの出来事は、簡単に信じられるわけでなく、また信じようとして信じられることではなかった。人に説得されても無理なこと、それ故に、無理に信じようとすることはいらない、それほど不思議な出来事と言える。では、信じる者と信じない者の違いは、一体どこにあるのか。(※コリント第一15:3以下)

<結び> 「女たちはイエスのみことばを思い出した。」(8節)信じるカギの一つ、それは主イエスが語られた言葉を、はっきりと心に刻んでいるか否かであった。よみがえりの予告を思い出す時、そのよみがえりを信じる信仰へと導かれるのである。しかし、より確かなことは、神がその人に働きかけて、その人を変えようとされていることである。婦人たちには御使いが遣わされていた。そして、ペテロには神が直接働きかけ、彼の心を動かし、墓へと走らせておられたと考えられる。主ご自身が、そのペテロに姿を現されたのは、特別な配慮であり、心を痛めていた彼に対する、主のあわれみによることであった。エマオ途上の弟子たちにも・・・。(※24:34、35)

 そして、今日私たちが、主イエスを信じることができるのは、私たちも聖書を通し、主イエスの約束の言葉に触れ、主が生きておられることを、一人一人、不思議にも信じる者に変えられたからにほかならない。よみがえって、今も生きておられるイエスご自身が、語り掛けて下さり、私たちの心に宿って下さっているのである。他の人に説明しても、また説得しようとしても、その人を信じる者にすることは、到底できないことである。けれども、生きておられる主イエスが、「みことば」を通して語り掛け、その人の心に宿って下さる時、その人も、イエスを信じる者に変えられるのである。私たちはそのようにして、教会の交わりの中で、この途方もない奇跡を経験し続けることになる。感謝をもって、主イエスの十字架とよみがえりを宣べ伝え続けたいものである。