礼拝説教要旨(2011.04.17)
あなたがたの先頭に立って
(ヨシュア記3章)説教者:枝松 律 教師候補者

  ヨシュア記3章は、イスラエルの民が、いよいよ約束の地カナンへと入っていく際、神がヨルダン川の水をせき止め、水を割った、という奇跡が書かれている箇所であります。2章において、カナン人たちが、イスラエルの神とイスラエルを恐れ、震え上がっているという斥候たちの報告を聴いたイスラエルの人々は、大いに励まされ、意気揚々としていました。そのような中、1節にあるように、彼らは、その後、ヨルダン川を渡るため、イスラエル全体が、ヨルダン川の川岸に移動し、そこに3日間留まったとあります。しかし、このヨルダン川は、15節にあるように、この時刈り入れの季節で、水があふれかえっていました。だからこそ、イスラエルの民達は、川岸を目の前にしたとき、こんなに川の水が多くて、どのように渡るのだろうか?と感じたであろうことが考えられます。

1.物語は、主と民の指導者による、民や祭司たちへの備えの指示などがなされる中進んでいきますが、物語が進むにつれて、だんだんと、何がこれから起こるのか、どうしていったらよいのかが明確になってくる、そのような特長的な方法で指示がされており、最初、奇跡に関しては一切語られていません。だからこそ、3章を民達の視点で読んでみると、次に何がおきるかをあえて伝えられないことで感じる感情などを考えさせられて読み応えがあるものです。今日はそのことを覚えながら、御言葉に預かって生きたいとおもいます。

2.3節から5節では、1章9節でも登場したつかさたちが、宿営を巡り、ヨシュアからの指示を民達につたえています。
民になされた指示は、主の契約の箱とそれをかつぐ祭司達を見たら、そのうしろについて出発せよ、というものであり、先ほど述べたように、ヨルダン川を渡るのに、どうするのかなどは、ここでは具体的なことは一切述べられていません。しかし、洪水状態にあったヨルダン川が、渡れるような場所ではなかったことを目の当たりにしていた民達は、不安な気持ちを抱いたのではないでしょうか。しかし、これは続く4節では、「それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」とあるように、民たちが行くべき道を知るため、民達が今までこの道を通ったことがないからこそ、主の臨在を現す契約の箱が先立って、先頭に立っていく、つまり、主ご自身が民を眼に見える形で導いてくださる、ということを指していました。これは、私の導きに従いなさい、そうすれば何も心配はいらない、ということが言われていた、励ましの言葉だったのではないでしょうか。また、2千キュビトの距離をあけることが指示されています。2千キュビトは、900メートル位のようですが、契約の箱は、主の臨在が現れている、聖なるものですから、近づきすぎてはいけなかったからでしょう。と同時に、先を行く主の契約の箱をしっかりと見て、それについて行くことができるように、近づきすぎないこと、2千キュビト離れることが、ここでは指示されているのではないでしょうか。

3.次に5節では、今度は、ヨシュアから直接民へ、明日、主が不思議を行われるから、身をきよめなさい、と指示されています。ここでやっと、主が不思議を行われること、そしてそれは、身をきよめて臨む聖なるものであり、そのために備えることが民に伝えられています。しかし、ここでもやはり、具体的にどうなるのかは語られてはいません。ただ不思議が行われる、と言うことのみです。民達は、どのようにこの指示をとらえたのでしょうか。おそらく目の前のヨルダン川の洪水に不安を覚えつつも、主の不思議が何なのかはわからずとも、そこに期待を持ったのではないかと思います。
他方、6節においては、ヨシュアから、「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」と祭司達へ指示がなされます。しかし、ここでは、祭司達へ、契約の箱をかついで、民の先頭に立ってヨルダン川を渡る、ということしか語られていません。ただ、渡りなさい、です。水があふれているヨルダン川を、箱をかついでどうやって渡るのか?そこでどのような不思議が起こされるのか?そんなようなことは一切語られていないのです。彼らが出発した後、今度は7、8節で、主ご自身がヨシュアへ言葉と指示を与えていますが、8節では、主がヨシュアを通して祭司たちに語っています。しかし、その指示は「ヨルダン川の中に立たなければならない。」とあるように、具体的なことではなく、そればかりかさらに困難なことが指示されているように見えます。

4.他方、7節では、ヨシュアに対しての主のことばが記されています。これはヨシュアに対する主からの励ましであります。
民達を導く上で、ヨシュアが主の権威を預かっている大いなるものであることが、1章で語られていたように、そのことがこの不思議を通して実証され、民達にしらしめられると言われているのです。この主のことばは、これから9節以降で、いよいよ民達に不思議について語り、民を導いていく役目を負っていたヨシュアにとって、大いなる支えとなったことは想像に難くないものです。

5.それらの後、ヨシュアは、民達を一同に集めて、民全体に語りかけます。9節でヨシュアは、まず「ここに近づいて、主のことばを聞きなさい」と呼びかけています。一見すると、4節で、主の契約の箱に、近づいてはならない、と指示されていたことと逆のことが言われていると感じるかもしれませんが、実際の距離の話ではなく、どうなるのだろう?と不安に思っていた民達の心を、主のところ、主の近くへと呼び集める言葉であったのではないでしょうか。心を主の近くに、つまり、これは主に信頼する、という意味に他なりません。そして、そのように民達に呼びかけつつ、10節では、生ける主があなた方のうちにおられ、必ず、主がカナン人たちを追い払い、約束の地を与える、ということについての確約と、続く11節と、13節において、その根拠が語られています。11節「見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。」 「見よ!」とヨシュアは呼びかけ、3、4節で語られたことが、今まさに起こっているのだ!主が先頭に立って導いてくださるのだ!と3,4節の励ましの言葉の成就を高らかに宣言しています。そして主の導きを語りつつ、ついに13節で、どのようにヨルダン川を渡るのか、5節で語られた不思議とは、ヨルダン川の水をせき止め、川を割く、という奇跡について明かされるのです。まさに出エジプトの際の、海を割った主の奇跡の再現ともいえます。ここで、主こそが我らを導き、ヨルダン川を渡らせ、カナン人たちを追い払ってくださるのだ!!そのようにヨシュアは高らかに述べているのです。民達は主が先を歩いてくださること、そして、その主が奇跡を行ってくださるという宣言を聞いて、どんなにか励まされたことでしょうか。それは、9節に「ここに近づき」とあったように、主への信頼をさらに深めるものだったに違いありません。

6.その奇跡は、14節以下において、実際に起こされました。民達は、主を信頼して、指示通り、主の契約の箱を担いだ祭司達の後ろについていきました。すると、ヨシュアの言葉どおり、祭司達がヨルダン川の水際に、祭司達の足が浸ったとき、ヨルダン川の水がせき止められ、ヨルダン川が割れたのです。その結果、民達は、祭司達が川の真ん中に立っているうちに、全員渡り終えることできました。このように、奇跡自体の記述は、とても簡潔に、たんたんと記述されています。しかし、たんたんと言っても、今見てきたような民達の思いや、その奇跡の場面の実際を考えると、それはとてつもない出来事だったことが図らずともわかると思います。それでは民達は、どのような思いで、その壮大な奇跡を目の当たりにしたのでしょうか。当然、その目には驚きと、主に対するおそれと信頼が満ち満ちていたのではないでしょうか。
さて、この3章では、主ご自身が先頭に立って、導いてくださるのだ、という励ましが語られ、その上で、特異な指示のされ方にあらわされているように、具体的な方法が語られず、先が見えない中においても、主のことばに従い続け、かつ備えをしていった民達の姿が記されています。それは、主への信頼なしには成しえないものでありました。
まさに、1章にて、ヨシュアに語られた主に信頼して、おそれないで、主のことばに聞き従っていくことが、ここでも求められているのです。主の言葉への信頼による従順がこの箇所のテーマと言えます。

適用.私たちは、ここから何を聞いたらよいのでしょうか。それは私たちにとっても、主のなされる業というのは、すぐには見えないもので、主が私たちに教えてくださることは、具体的な方法や、どうなるかという結果ばかりではない、ということではないでしょうか。私たちは、すぐに結果をほしがり、その方法がわからなかったり、全体が見えないと不安になります。例えば、祈りの中、答えが与えられない、わからない、不安の中、歩かなければならないことも多いです。しかし不思議が起こる、といわれ、身をきよめ備えをした民達の姿に、そして主を信頼して、主の契約の箱のうしろについて行った民たちを、私たちは倣いたいものです。
「あなたがたの先頭に立って」と言われているように、自分達が歩いたことがない道を、主が先に歩き導いてくださること、それ以上に安心なことはないのではないでしょうか?主がなさることは、私たちの想像を超えるものです。しかし、だからこそ主への信頼を確かなものとして、主の業に期待して、主が語られることが、その時は断片的でも、答えがないと思うようなときでも、自分が通ったことがない道を主が用意して、主が先頭に立って歩いてくださることを、主の近くにいきつつ、信頼しつつ、目の前にあることを、日々語られることを、受け取って従うものでありたいものです。