「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」これがイエスの前に進み出た、ある役人の質問であった。彼は「小さい時から」戒めを守り、人々からの尊敬を得る生活をしていたものの、未だ「永遠のいのち」を受けたとの確信はなく、平安がなかったのである。彼には足りないことがあった。それは地上の生活への執着を捨てること、そのうえで、主イエスに従うことであった。しかし、その一番肝心なことについては、裕福な人のみならず、全ての人が無力であり、だれ一人、自分の力で救いに至るのは不可能と、その場にいただれもが、意気消沈せざるを得なかった。けれども、主イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」救いは神の大いなる業、神が人を救って下さるのだ・・・と。
1、多くの人々と共に、イエスのすぐ近くにいて聞いていた弟子たちの心は、激しく揺れ動いていたようである。悲しげに立ち去る役人の後ろ姿を見、そして主の言葉を聞いて、「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と、真っ先に戸惑いの言葉を発したのは、弟子たち自身であった。自分自身のこと、主と共に歩む自分のことが、不思議でもあった。そして、「人にはできないことが、神にはできるのです」と告げられ、神が成して下さること、導いて下さることに、いくらかでも、思いが向かうことになっていた。けれども、その時、ペテロが発した言葉は、いかにも彼らしいもの、今何かを言わなければ・・・と必死に言葉を探しながら、慌てて口にしたもののようである。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」(28節)
主の元を去っていった役人と比べて、自分たちは主に従っている事実、それまでしていた生活を捨てた事実、どれも不思議であり、神がさせて下さったことを思い返すことができたのであろう。しかし、同時に役人との違いは何なのか、それも知りたいと、心の中は揺れていた。マタイ福音書では、ペテロが、「私たちは何がいただけるでしょうか」と問うている。(マタイ19:27)何もかも捨てて、主に従ったこと、それを誇るつもりはなく、そのようにした者たちに、神がどのように報いて下さるのか、それを知りたいと願った。そして主イエスは、その思いに答えておられる。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」(29〜30節)
2、「何もかも捨てて」(マタイ19:27、マルコ10:28) と言い切る程に、弟子たちは自分の家、自分の物を捨てて、イエスに従っていた。主はそのことをよくご存じであった。それで「神の国のために・・・捨てた者で、だれひとりとして」報われない者はいない、この世にあっても、後の世にあっても、と明言された。自分の家、あるいは自分たちの物と言って、人はこの地上にあって生活を営む時、家を中心に人との関係を広げ、物を蓄えるものである。それらが順調に行けば行く程、人は神との関係を疎かにし、天を見上げることを忘れる。何故か。家のこと、すなわち妻、兄弟、両親、子ども・・・、その他にもあらゆる事柄が、生活について回るからである。けれども、神の国のために、それらを捨てた者には、必ず神が報いて下さると、主は言われるのである。
捨てた者には、この世で「その幾倍か」を報いて下さること、後の世で「永遠のいのち」を報いて下さること、二重にも三重にも、報いは確か!と。「何がいただけるでしょうか」など、全く心配する必要はない!とも言われたのである。神が報いを備えておられること、そして、究極的には「永遠のいのち」を備えておられることを忘れないようにと。永遠のいのちを得るために、何もかも捨てることが求められているのではない。イエスに従うのに、何もかも捨てることがあっても、それがこの世で何と不合理で、損なこと、不条理と思えても、神が用意して下さる報いは、この世でも、後の世でも、豊かで完全なのである。主は、弟子たちに、「安心しなさい」と、語っておられた。弟子たちは、ただ主を信じ、全てを捨てて従うかどうか、それが問われていた。
3、そして主は、弟子たちに三度目の十字架の予告をされた。これまでに二度、十字架のことを告げておられたが、いよいよエルサレムか近づき、益々時が迫っていた。(31〜33節、※9:22、9:44)予告内容は、順次詳しくなり、この三回目は、「異邦人に引き渡され」ること、「あざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ」、「むちで打」たれることなど、十字架の死に至る悲惨な光景に触れられている。主ご自身が、十字架につけられて死ぬことに、様々な侮辱や嘲りがついてくることを、予め知っておられたことになる。それらのことについては、「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです」と語って、全ては聖書が語る通りに、旧約聖書の預言の通り、人の子の受難の時が来ると告げておられた。(※イザヤ53:1以下)
けれども、この十字架の受難の予告には、三日目のよみがえりも触れられている。主は三度の予告において、いずれも受難=十字架の死と、死からのよみがえりに触れておられた。ところが、弟子たちは死の予告が強烈だったためか、よみがえりの予告は、ほとんど耳に入らなかったようである。今回も、語られた意味が「何一つわからなかった。」彼らの心の鈍さだけでなく、「彼らには、このことばが隠されていた」からであった。(34節)神のご計画は、イエスがだれにも妨げられることなく十字架の死に至ること、そして罪の身代わりの死が成就することが、何よりも優先させられていた。弟子たちの無理解さ、「何一つわからなかった」と言われることは、私たちには、何とも不可解である。けれども、メシヤが地上的に勝利することを期待する人々には、やはり、人の子が苦しみを受けるとは、考え難いことだったのである。
<結び> 弟子たちは無理解であり、そして彼らは考えたくなかったようであるが、主イエスご自身は、十字架の苦難を見据え、エルサレムへの道を歩まれた。間もなく十字架の上で身代わりの死を遂げようとしておられた。それは父なる神から見放される、激しい苦難の道のりであった。人々からの侮辱や、肉体の苦痛とは比べものになられない、内面の苦しみが待っていた。主はそれら全てを身に引き受けて、前に進まれた。主イエスを信じる全ての者の救いのためである。そのためにこの世に来られ、罪のない生涯を歩み、罪ある者の身代わりとなるのである。その十字架のみ業により、私たちの救いが成るのである。自分では自分を救うことの決してできない私たちが、罪を赦され神の国に入れられるためであった。
この救いの確かさを多くの人は認めず、今なお自分の思いのまま生きようとしている。けれども私たちは、弟子たちが最初は分からなかった十字架とよみがえりについて、後になって理解した事実のあることを心に留めたい。すなわち、弟子たちが考えを大転換する出来事があったということである。それなしに今日の教会は存在し得なかった。十字架とよみがえり、主イエス・キリストの受難と復活があって、弟子たちは全てを理解する者となった。彼らもまたどんな苦難が待ち受けていたとしても、主イエスの十字架とよみがえりの出来事を、喜びの知らせととして、全世界に告げ知らせる者となって立ち上がったのである。私たちも、この喜びの知らせ、福音の確かさを信じ、主によって世に送り出されたい。主の証し人として生きる者、歩む者として!
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