礼拝説教要旨(2011.04.03)
だれが永遠のいのちを受けるのか
(ルカ 18:18〜30)

 「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(17節)主イエスは、幼子たちを呼び寄せて祝福するだけでなく、そこにいる大人たちに、神の国に入るのはどのような人であるかを告げておられた。その話を聞いていた人々の一人であろうか、「またある役人が、イエスに質問して言った。『尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』」(18節)この役人は、とても真面目に生きていた人のようである。ユダヤ人の社会において、役人または議員となるのは、それなりに経験を積んだ人であるが、若くして(マタイ19:20)その立場になったのは、「小さい時から」(21節)戒めを守る生活をし、「金持ち」(23節)にもなって、人々から尊敬を集めていたからと推測できる。

1、おそらく、度々イエスの元に来て、その教えに耳を傾け、大切なことを聞き逃すまい、大事なこと、永遠のいのちを受けるために成すべきことを、教えていただきたい、と通っていたのかもしれない。これまでの経験では得られなかった何かが、このイエスにはある、そう感じて、「尊い先生」と語りかけた。ただ「先生=ラビ」と呼ぶには、何かが違う・・・と。彼はイエスの前に「走り寄って、御前にひざまずいて」(マルコ10:17)いる。この機会を逃すまい、この方から教えを乞いたい、と切なる思いを込めていた。この役人は、実は永遠のいのちを受けるためにこそ、熱心に戒めに従い、善い業に励んでいたのである。けれども、未だそれを受けた、得たとの確信がなく、悶々としていた、というのがその心の内側だったのである。

 人の心の内側を知っておられる主イエスは、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません」(19節)と問い返された。「尊い」「良い」と言うべき方は、神だけである。だから「わたしを神と認め、それで問うているのか」と、切り返しておられた。当然のように神を信じている・・・という人に、今一度、本気で神を信じているのかと迫る、そのような言葉である。全ての良いもの、尊いものは神から来る。彼は自分では気づかないまま、「永遠のいのち」は神から来るもの、神から受けるものと悟っていたようである。「何をしたら、・・・受けることができるでしょうか。」彼には、確かに慎みがあった。けれども、しっかりと心は神に向いているのか、そのことを先ず、主イエスは問われたのである。

2、その上で、「何をしたら・・・」と問う彼に、「『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え』」と、彼のよく知っている筈の戒めを明示された。(20節)役人は躊躇いなく、「『そのようなことはみな、小さい時から守っております』」と答えた。(21節)主は、この役人が自分のことを省みるのに、比較的し易いことから戒めを列挙しておられた。そして、十戒の前半には触れないで、後半を中心に自己吟味を迫られた。彼は、彼なりの正直さをもって答えている。きっと何が足りないのか、どうしたらよいのか・・・と、益々困惑したと想像できる。自惚れていたわけではなく、熱心に戒めを守っていたからである。

 主イエスは、彼に言われた。「『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」(22節)この人には、決定的に足りないことがあった。それは、「わたしについて来なさい」との命令に従うことである。それには段階があり、主は、分かり易く語っておられた。彼の心が、まだこの地上の事柄に囚われていること、地上の富や地位、また名誉に拘っていることを見抜かれたからである。「持ち物を全部売り払い、貧しい人に分けてやりなさい。」地上の富に執着しながら、永遠のいのちを受けたいと願うことは、実際には不可能である。永遠のいのちは神から受けるもの、それを受け継ぐのは、地上の富への執着を捨て、天に宝を積む人、そのようにして主イエスに従う人なのである。

3、「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。」(23節)この役人が「非常に悲しんだ」のは、教えの通りにできない自分を、どうすることもできなかったからであろう。イエスの元を立ち去り難く、さりとて、イエスの言葉の通りに従えない自分が、何とももどかしかったのである。その姿を見て、「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と、主は言われた。教えを聞いた者はみな、「それでは、だれが救われることができるでしょう」と、人が救われることも、永遠のいのちを受けることも、人には不可能なことと実感した。だれ一人、自分で地上の富や生活への執着を捨てるなど、とても考えられなかったからである。金持ちがその富を捨てることの難しさだけでなく、全ての人にとって、心を地上から天上へと向けるのは、自分ではできないことなのである。(24〜26節)

 けれども主は言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(27節)永遠のいのちを受けること、そして救われること、それは、人には全く不可能なことであって、神が成し遂げて下さる事柄である。すなわち、地上の富への執着を断ち切るには、その人の心が全く転換させられる必要があり、それは自分ではできない。神がその人を造り変えて下さるのでなければ、それは決して起こらない。神が手を差し伸べて下さる時、その不思議が起こり、たとえどんなに頑なな人であっても、神によって救われるのである。この役人のことを、主イエスは見つめ、「いつくしんで」語り掛けておられた。(マルコ10:21)彼は立ち去った後も、イエスの言葉を思い出したに違いない。永遠のいのちを受けるには、イエスについて行くこと、イエスに従うことであると。それは主イエスと共に生きること、共に歩むことに他ならなかった。

<結び> 「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。」永遠のいのちを受けたいと、心から願ったのであろう、この役人に欠けていたのは、主イエスに従うことであった。それを妨げていたのは、地上の富であり、地位や名誉であった。私たちの心の内側はどうだろうか。この世の金持ちだけが、富に執着しているわけではない。そして、その執着を捨てるのは、ほとんどだれもできないと痛感する。それをさせて下さるのは神である。神が私たちの心を変えて下さる時、私たちに、神を信じ、キリストを救い主と信じることが導かれる。その道が開かれる。そのようにして、私たちは、神を信じ、神が遣わして下さったキリストを信じたのである。

 「だれが永遠のいのちを受けるのか」、その答えは、この地上の富に心を縛られないで、それらを捨ててイエスに従う人、イエスについて行く人である。自分で自分を変えることはできないと、本気で認める人である。その人は神によって自分が変えられることを喜び、神が変えて下さった自分を喜ぶことができる。私たちは、自分がどのように生きるのか、改めて問い直されている。この地上の生涯を第一とするのか、それとも、地上の生涯を終えても、なお続く命のあることを覚えて生きるのか、「永遠のいのち」を受ける者、受け継ぐ者として生きるのか。神は、全ての人がもれることなく、主イエスを信じて従う者となるよう求めておられる。(※テモテ第一2:4、ペテロ第二3:9)私たちは一人一人、主イエスを信じ、「永遠のいのち」を受けている者として、心からの感謝をもって、地上の生涯を歩ませていただくだけでなく、神と共に生きる幸いを証しするという、尊い役割も与えられていることを心に刻みたい。