「祈り」、そして「信仰」を教えるために語られた最後に、主イエスは、少々嘆きを含む言葉を発しておられた。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(8節)その言葉は、弟子たちの心を揺さぶったに違いなかった。遠巻きに教えを聞いていた人々もいたであろう。主は、人々に自己吟味を迫っておられたのである。誰もが、自分の心の内を探り、本当に神を信じているのか、それとも、本気で信じる気持ちなどはなく、人前で自分を取り繕うことで良しとしているのか、よくよく考えなさいと。そして、次のたとえを話された。弟子たちの他、多くの人々を前に、神の国に入る人の条件を、次々と明らかに示そうとされた。
1、「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。」(9節)その場にいた誰かに、と言うより、少しでも、自分は大丈夫・・・と思う、そのような人々に対して、自分を吟味するよう迫っておられた。もちろん、パリサイ人たちのことを意識して、彼らに聞かせようとされたのも事実であろう。彼らは、主イエスから何度となく、厳しく責められている。けれども、この教えを聞く全ての人が、自分には無関係と、聞き過ごしてはならなかった。神が人の心の内を見ておられること、神は人の心の内側を知って、正しい判断をなさることを、全ての人が知るようにと、主は語っておられたからである。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。」(10節)当時のユダヤの社会では、敬虔な人々は日に三度祈る習慣があった。そして、祈りのために宮に上るのは、多くの人が心掛ける、尊いことであった。その当然なこと、神を信じる者としての尊い行為でありながら、この二人の祈りは、全く好対照である、と主は言われた。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」(11〜12節)
2、パリサイ人が「立って」祈ったことは、人々の祈りの姿勢として、ごく普通のことであった。取税人も、「立って」祈っている。「心の中で」とは、声に出す祈りではなかったこと、心の中で、自分に向けて語るようにして、祈ったことを指している。神に祈りつつ、自分に言い聞かせ、自分なりに納得していた・・・ということになる。神に感謝してはいても、その実、「・・・でない私」を数え、評価し、「この取税人のようではないことを、感謝します」と、「自分を義人だと自任し、他の人々を見下して」いた。確かに、「ゆする者」でなく、また「不正な者」でなく、「姦淫する者」でないことは、この世で正しいことであり、善いことである。けれども、「ほかの人々のようではないこと」を感謝したとしても、その感謝は、神に届くものかは疑問である。
また彼は、「週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」と祈った。旧約聖書では、年に一度の断食が命じられていたが、行いを熱心に求める人々は、「週に二度」の断食を行うようになり、この人はそれを実行していた。また「十分の一」の捧げ物も、決められた以上を実行していたのである。(※断食:贖罪の日に行うこと レビ16:29〜34、23:27〜29、捧げ物:農産物と家畜の十分の一 レビ27:30〜33) 確かに信仰深く歩んだのであろう。けれども、律法を守るのに、定められた以上に守っていますと、自分の徳を並べることになっていた。これは由々しきことであった。神に感謝し、祈っているようでいて、横を向いて、傍にいた取税人を見て、彼と自分を比べ、その違いを勝手に喜び、自己満足していたのに過ぎなかった。
3、他方、取税人の祈りは、「『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」であった。彼は「遠く離れて立ち、目を天にむけようともせず、自分の胸をたたいて」祈っていた。なるべくなら隠れた所で、と遠くにいたのだろうか。人々が目を天に向けて祈る中で、彼は目を上げて天を仰ぐことなく、悲しみに胸が張り裂ける人のように、「胸をたたいて」祈った。神を仰ぐ時、彼は自分が罪ある者であることを知って、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と、ただ、そのことだけを祈ったのである。神に求めることを許されるのは、「あわれんでください」だけであると。神の正しさと清さ(聖さ)の前に、自分の罪深さと汚れは、神のあわれみなくしては、どうにもならないと痛感させられていたのである。(13節)
「あわれんでください」の意味は、私に目を留めて下さいとの願いを込めた「あわれんでください」(39節)とは違っている。へブル人への手紙2章17節にある、「それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」の「なだめがなされる」と訳される言葉、罪を「償う」という意味の言葉で「あわれんでください」と祈っていた。罪人の私にとって、神に向かって、罪の償いを願うしかないと、この人は胸を打ちたたいていたのである。罪に対する神の怒りは、神だけが鎮めることができると、心から信じたことを言い表していた。そして、主イエスは言われた。「あなたがた言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(14節)
<結び> 主イエスは、それはそれは明解に、また明快に人が義と認められる道を告げておられた。二人の人のどちらが、神によって義と認められたか、その答えを、人々に求めつつ、「この人が」と告げ、同時に「パリサイ人ではありません」と明言された。主ご自身が、信仰義認を告げておられる。その意味で、とても大事な教えである。義と認められるためには、その人の心の内が、神に善しとされること、それが全てである。自分で自分を義とするなどは、全く当てにならないと、主ご自身が語られたのである。
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」この教えを、主イエスは繰り返し語っておられる。人の心には、この教えを聞かなければならない、高慢さ、高ぶりや自惚れがあることを、主が知っておられたからである。神が人の心を知る方であると、何度知らされても、そして、もう分かったとしても、それでも、私たち人間は、自らの心を低くすることを、学び続ける必要がある。自分を知る人、自分の罪を知って、神に頼る人、神にあわれみを求めて神を呼ぶ人、そのような心のへりくだった人を、神は義と認められると、主イエスが告げておられる。私たちは、その主イエスを救い主、キリストと信じる信仰に導かれていることを感謝したい。そして、いよいよ心を低くする者とならせていただきたい。
|
|