「人の子の日」は必ず来る。しかし、すぐに来るわけでなく、その日をどれだけ心待ちしても、それで早まるわけではない。確かに信じて待つこと、それが弟子たちの成すべきことであった。神を信じているなら、永遠に思いを向けること、見えないものにこそ心を向けること、それがどれだけ大切であるか、主イエスは語っておられた。次に主は、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを、たとえを用いて教えようとされた。「人の子の日」を迎える者として、弟子たちには、どんな時が来ても祈り続ける、確かな信仰を期待しておられたからである。(1節)
1、「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。」(2〜3節)たとえに登場するのは「裁判官」と「やもめ」である。この裁判官は、ユダヤ人ではなく、異邦人と考えられる。ローマの支配下にあって、ある町の裁判を任されていたが、「神を恐れず、人を人とも思わない」、それだけでかなり疑問符の付く、そんな裁判官であった。やもめは、旧約聖書の時代から、貧しく弱い存在として認められ、その願いは神によって聞き入れられる、と約束されていた。そのやもめが、当然の権利として訴えたものの、この裁判官は、神をも人をも恐れない、自分を神とするほどの悪しき者であった。(※出エジプト 22:22〜23)
彼は、自分の意に添う裁判だけを行っていたのであろう。やもめが訴えても、それを取り上げることなく、「しばらくは取り合わないでいた。」それに関わろうとせず、彼女のために裁きを下すのを、先送りする態度を取った。やもめの訴えの内容は触れられていない。けれども、彼女は、「私の相手をさばいて、私を守ってください」と求め続けた。それは裁判官に向かって、正しい裁き=正義=を求める切実な求めであり、正当な訴えであった。そして彼女は、決してひるまなかった。追い返されても、また追い返されても、彼女は訴え続けたのである。そうこうする間に、この裁判官は考えを変えることになった。
2、「彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」(4〜5節)「この女のために裁判をしてやることにしよう」と言いつつも、本心は、やもめのうるさい訴えから、自分が逃れたかった。彼女があきらめなかったこと、求め続け、訴え続けたことが、この裁判官の重い腰を上げさせたのである。このままでは、もって厄介なことになると、恐れたのかもしれない。さすがの彼も、これ以上は勘弁してほしい・・・と思ったのだろうか。
たとえを語った後、「主は言われた。『不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。・・・』」(6〜8節)「不正な」とは、必ずしも善し悪しのことではなく、この世の、神を恐れない者を指してのことである。神を知らない裁判官でさえ、失望せずに、訴え続けるやもめの求めに、確かに答えているではないか。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」そんなことは、絶対に有り得ない。必ず求めを聞き上げ、答えて下さる。それがあなたがたの信じている神である。だからどんな時も、失望せずに祈りなさいと。
3、祈り続けること、熱心に、また執拗に願うことについて、主イエスは、同じようなたとえを語っておられる。真夜中に訪ねて来た友人のため、友だちに「パンを三つ貸してくれ」と頼んだ話である。祈る時、ためらうことのない求めの執拗さ、そして求め続ける熱心さを忘れないようにと。(ルカ11:5〜13)けれども、この18章では、ただ熱心に祈り続け、また執拗に求め続けるようにと言うだけでなく、失望し、落胆し、気落ちすることがあっても、それでも祈れるのは、祈りを聞き上げて下さる神がおられ、その神が、正しい裁きをつけて下さるから、と言われている。弟子たちに、神がおられるからこそ、祈り続けなさい。失望して、気落ちする時にも、それでも祈りなさい、神は必ず聞いておられるから・・・と。(※ピリピ4:6〜7)
そのように語られた時、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と、主イエスは、少々嘆きを含んだ言葉も発しておられた。「人の子の日」を迎えるまでに、まだまだ時間があること、そして、そこに至るまでの間には、やはり苦難があって、信仰がふるわれることを暗示された。悲しいことや苦しいこと、失望し落胆することがあり、争いもあり、神の裁きを待つのに疲れることがあると。それ故に、その日に「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と、深刻な心配をされた。教えを聞いていた弟子たちの反応は、何も記されていない。「主よ。大丈夫です。心配ありません」と、誰かが答えたのだろうか。それとも、皆が沈黙してしまったのだろうか。
<結び> 弟子たちが聞き漏らしてはならなかった言葉は、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」であった。生きて働いておられる神は、選民であるご自身の民の求めを、聞き過ごすことはなさらない。聞き逃すこともない。もっとも良い時に、必ず裁きを成して下さる。そのことを、私たちも信じるように招かれているのである。
神を信じ、神が遣わして下さった救い主、イエス・キリストを信じて、どんな時も、またどんなことがあっても、失望せずに祈る者となって、地上の生涯を歩ませていただきたい。カギとなるのは、神がおられ、私たちの祈りを聞いておられることを、心から信じる信仰があるかないかである。もし信じるなら、その信仰の大小を憂えることなく、今ある信仰で祈り続けること、それが大事である。もっと大きな信仰とか、もっと強い信仰を求めることはいらない。私たち一人一人は、主イエスのとりなし、そして聖霊の導きのもとに、失望せずに祈る者として歩むことが、確かに導かれているからである。
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