エルサレムに向かう途中、主イエスは、パリサイ人たちの問い、「神の国はいつ来るのか」に答えて言われた。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(21節)「神の国の到来」を待つ余り、今、神が共におられる幸い、そして、主イエスが共に歩んで下さる幸いを見失ってはならないからであった。けれども「人の子の日」として、主イエスが再び来られる日を待つこと、すなわち「終わりの日」のあることを、決して忘れてはならないことも、はっきり弟子たちに告げておられた。その日には、神に従わない者に裁きが下されることが定められている。(30節)だから、その日を、幸いな日として迎えるのは誰なのか、弟子たちだけでなく、全ての人が、心して自分の生き方を問うこと、その大切さを教えようとされたのである。
1、「その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。」(31〜32節)「人の子の日」を迎える時、なお心すべきことがあると語られた。そのギリギリの時において、一番肝心なこと、その人が何を大切にしようとしているか、何に心を惹かれているのか、そのことが明らかになるからである。(※マタイ24:17〜18節)ロトの妻を思い出すようにとは、彼女が「後ろを振り返った」ことである。命がけで逃げるように、決して後ろを振り返ってはならない・・・と、命じられていたにも拘らず、彼女は振り返ったので、「塩の柱」となって滅びたのであった。痛ましい出来事であるからこそ、しっかり覚えていなさいと言われている。(※創世記19:15〜26)
その上で、「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」と語られた。(33節)主イエスは、同じ趣旨の教えを折々に語っておられる。ペテロが正しい信仰告白に導かれた後、主に従う弟子たちの覚悟を促しておられた。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:24)マタイの福音書では、十二弟子を初めて遣わす時、やはり弟子たちの覚悟を問うように語られている。(マタイ10:39)「いのち」には二通りあることを。この世にある肉の「いのち」と、永遠に続く霊の「いのち」があり、「肉のいのち」を救おうと努め、かえって失ってしまうのが「霊のいのち」である。そして、「肉のいのち」を失うのを惜しまない時、それを保つのが「霊のいのち」なのである。人には、この地上で生きる「いのち」と、永遠に続く本当の意味での「いのち」、霊的な「永遠のいのち」があることを、主は語っておられた。
2、私たちは通常、「いのち」を区別して考えたり、実際に使い分けたりはしない。そんなことは、ほとんど不可能である。けれども、肝心な時に、非常にはっきりとした形で、どちらを大切にしているかが現れるのである。普段の生活において、ほとんど気づかずに過ぎていても、「終わりの日」「人の子の日」という極限で、驚くほどはっきりとする、その例がロトの妻、と言われている。彼女が振り返った理由は、何だったのか。ロトとその家族四人は、ソドムの町から出るように命じられていたが、最後までためらっていた。御使いに手を引かれてやっと町を出たものの、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。・・・立ち止まってはいけない。山へ逃げなさい。・・・」と告げられても、遠くの山ではなくて、近くの小さい町に「逃げさせてください」と頼んでいた。そして、ロトの妻は振り返ったのである。
逃げ出したものの、ソドムの町に残った娘たちとその家族のことが、気にかかって仕方がなかったのであろう。自分の家や家財が心配というよりも、娘たちのことが、親として気がかりとなったのに違いない。けれども、この親心も、実は脱出前にこそ示すべきものであった。脱出した後は、この地上の事柄に引き戻されることなく、神の言葉に従うこと、それが本当の意味で、「いのち」を保つことになるのである。そのためには日頃から、心をどこに向けているか、今の生活と永遠に続く生活の、どちらを大切にしているか、そのような事柄の一つ一つを、自分で整理することが求められている。目に見えることで全てを判断するのか、それとも、目には見えないもののあること、目に見えない事柄の方に、はるかに大切なことが隠されていると信じるのか・・・、主は弟子たちだけでなく、人々にも問い掛けておられた。(マタイ6:19〜21、ルカ12:21)
3、「あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」(34〜35節)地上のことに心が惹かれているのか、それとも、永遠のことに心がしっかり向いているのか、それを見分けて下さるのは神ご自身である。その日、夜であても昼であっても、二人の人がいるなら、一人は取られ、一人は残される。人の心の内をご存じの神が、一人を神の元に確かに受け入れ、他の一人をそこに残される。それは、全く誤りなく、完全な形で成されることである。その人が、神を忘れ、自分で生きていると言い張るのか、神と共に歩み、神にあって生きているのか、それが分かれ道となる。この世で富むことを求めているのか、それとも、天に宝を蓄えて生きているのか、その違いが最後に明らかになるである。
余りの明白さに驚いたのか、弟子たちが尋ねた。「主よ。どこでですか。」一体、どこでそんなことが起こるのですかと。(36節)やはり、「いつ」「どこで」「どのように」との問いが、繰り返される。主イエスの答えは、「死体のある所、そこに、はげたかも集まります」と、やや難解であった。(36節)少々不気味な言葉であるが、当時の格言と考えられている。死体に集まるはげたかの習性にふれ、必ず起こること、間違いなく成ることを表す格言と理解されている。神と共に歩む人が、神の元に受け入れられることは、確実なこと、中途半端はない、心配することは何もない。だから、主イエスは約束されたのである。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。・・・」(ヨハネ14:1以下)
<結び> 主イエスは弟子たちに、人の子の日を確かに迎える人として生きることを望まれたのである。いつ、どこで、どんなことが起こるのか。そのようなことに心を動かされず、神を仰ぎ、心を神に向け、神と共に歩む者となるように。神にあって生きることを、殊のほか大切にするようにと期待された。現実の生活は、確かに心を騒がせることが多いものである。悩むこと、悲しむこと、痛むこと、憤ること、悔しいこと、心配なこと・・・、数えるときりがないのも事実である。
けれでも、私たちは、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と教えられている。(コリント第二4:18)また、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストをともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます」という教えも、聞かされている。(コロサイ3:1)この地上のことが、どれだけ大きく圧しかかっても、心配が広がっても、それでも神を信じ、神に信頼して歩ませていただきたいものである。心を神に向け、人の子の日を迎える人として生き抜くことができるよう、祈り続けようではないか! 主イエスが共におられることを信じて!!
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