礼拝説教要旨(2011.02.13)
人の子の日に起こること
(ルカ 17:22〜30)

 エルサレム行きの途中、パリサイ人たちの問いに答えて、主イエスは、「神の国の到来」を待ち望む余りに、人々が陥る誤りを正された。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(21節)将来の完全な実現を信じたとしても、今、神が共におられる幸い、主イエスが共に歩んで下さる幸いのあることを見失ってはならないからである。神の国に入る幸いは、この世にいる全ての人に対して、いつも開かれていることであって、人々に向かって、心を開くように、主は迫っておられたことになる。そして、弟子たちに対しては、将来の実現に向けての、一層の心がけについて語られた。

1、「イエスは弟子たちに言われた。『人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が「こちらだ」とか、「あちらだ」とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。』」(22〜23節)今実現している「神の国」ではなく、将来に必ず実現する「神の国」として、「人の子の日を一日でも見たいと願う」、そのような時が来ることを告げられた。主イエスがメシヤなら、その方の支配が、遍く実現する日の到来を、弟子たちが切に願うのは当然である。けれども、どれだけ心を込めて願っても、その願いは叶わない時が来る・・・と。そのような時が来て、「こちらだ」とか、「あちらだ」とか言う人が現れたとしても、その人々の言葉に惑わされてはならない、決してついて行ってはいけない、と注意を促されたのである。

 なぜ、そのような注意が必要なのか。「見たいと願っても、見られない時」とは、どのような時なのか。それは、弟子たちの歩みには、必ず苦難がついて回ること、その苦難の中で耐えかねて、「人の子の日」の訪れを心待ちする、そのような時が来ることを意味していた。その時、「こちらだ」「あちらだ」と言う人が現れても、それに惑わされない、ついて行かない、それが大事であると言われた。なぜなら、「人の子」の現れは、「いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように」、誰の目にも明らかなことで、注意さえしていれば、人に指図されなくても分かる、それ程に明確な出来事だからである。弟子たちは、自分たちが受ける苦難の前に、主ご自身が苦しみを受けられることを、心に刻むようにと告げらた。「しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」(24〜25節)

2、主イエスが必ず苦しみを受けられること、人々に捨てられること、それは弟子たちには、まだ理解できないことであった。けれども、後になって分かることを、主イエスは、この時に語られた。エルサレムに向かう途中、そこでの苦難について触れ、主ご自身の苦難に続く者となるよう、弟子たちを励まそうとされた。彼らは理解できなかったが、主は、はっきりと十字架を目指して、道を進んでおられたのである。そして、十字架の死と死からの復活の後、弟子たちは、どんな苦難にも耐える者と変えられるのであった。死から復活された主イエスに出会った弟子たちは、自分たちでも驚く程に強くされていた。主が再び来られる日を待ち望んで、目の前の苦難に打ちのめされることはなかった。神が共におられる幸いによって、力づけられていたからである。

 主は、弟子たちが心備えができるように、語り続けておられる。「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。・・・また、ロトの時代にあったことと同様です。・・・人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。」(26〜30節)「神の国の到来」また「人の子の日の到来」、あるいは「この世の終わり」、「主イエスの再臨」など、いろいろと表現される「終末」について、やはり関心は、「いつ」「どこで」「どのように」など、「しるし」を求めてしまうものである。けれども、何かの「しるし」を求めることではなく、ノアの時代にあったこと、起こったこと、そしてロトの時代にあったこと、起こったことを覚えていなさい、と主は明言された。その時に何があったのか、何が起こったのか知っているでしょうと。救いに入れられた人は誰か、滅ぼされた人は誰か・・・。その違いは何だったのか・・・。

3、「すべての人を滅ぼしてしまいました」、「その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました」と、いずれの時も、神の裁きの厳しさが際立っている。しかし、どちらも裁きが来ることは予め告げられていた。ノアが神に命じられたとおりに箱舟を造っている間、人々はそれを目にしていた。何のために箱舟を造っているのか、聞いていたに違いない。けれども、ノアと行動を共にした人はいなかった。(創世記6:13以下)ロトの時代の人々も、彼が告げた警告に決して耳を傾けなかった。それは「冗談」と受け留めたからである。(創世記19:14)警告を心に留めなかった人は、例外なく「すべて」滅ぼされた。いずれの場合も、今、自分のしている生活を省みることがなかった。立ち止まり、神の警告に耳を傾けることが求められていたにも拘わらず・・・。神がいますこと、この世には終わりがあること、そして、神の裁きがあることを、全ての人が心に留めることが求められているのである。

 「人の子の現れる日にも、全くそのとおりになります。」この言葉は、とても厳しものである。誰一人として、知らなかった・・・、気づかなかった・・・と言える人はいない。この世には、神を知らない人がいるではないか、また聖書を持たず、聖書の教えを知らない人がいるではないか、と反論がなされる。けれども、神への背きは、初めの人アダム以来であり、背く者への裁きと救いへの招きは、世の始めより告げられている。そのままでは、全ての人が滅ぶのであって、救いへの招きは、ただ恵みによること、あわれみによることである。滅びを免れるのは、神がいますことを心から信じて、神が遣わされた救い主、イエス・キリストを信じることによる。そのことを信じた人が、目を覚まして、今の時を生きる者となる。神がその人を導き、支えて下さるからである。

<結び> 「人の子の日」が必ず来ること、けれども、その日、その時は、誰も知らない、ということを心に留め、その上で心騒がせることなく、この地上の日々を歩ませていたきたい。この地上の生活に心を奪われることなく、天を仰ぎ、主が再び来られるのを待ちたいと願う。(テサロニケ第ー5:1〜6、マタイ24:32〜51)それぞれに与えられている務めを果たすこと、日々遣わされている所で、キリストの香りを放つこと、また特別な何かをすることでなくても、神を信じ、神に従う人が一人、そこにいること、それらがどれだけ、神の御栄えを現すことになっているかを心に留めたい。この信仰に生きることを、主イエスは弟子たちに望まれ、私たちにも望んでおられるからである。