礼拝説教要旨(2011.02.06)
神の国はいつ来るのか
(ルカ 17:20~21)

 ルカ福音書17章は、20節より新たな段落となる。エルサレム行きの途中のことであろう。但し、ここに記されている教えは、主イエスの公の生涯において度々語られたもので、丁度この段落でまとめられているようである。神の国の到来については、今すでに来ている事実と、やがて将来に実現する約束を、人々が整理して理解するのは難しかったからである。主イエスが語られたその時も、福音書が書かれた1世紀の教会においても、そして現在の私たちも、神の国の到来については、繰り返し確認することが大切な課題である。将来の素晴らしい約束が、時には、今の生活を疎かにする落とし穴を招くからである。

1、「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられた時、イエスは答えて言われた。『神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。・・・・』」(20~21節)イエスに質問をしたパリサイ人たちは、当時の多くの人々の思いを代弁していた。心ある人々はメシヤの到来を待ち望み、イスラエルの民をローマの支配から解き放ってくれる、そのような神の国が実現するのを心待ちにしていたからである。バプテスマのヨハネのもとに、人々が殺到したのも、またイエスのもとに人々が集まったのも、メシヤに期待し、この方がメシヤなら、国を再興して下さるに違いない・・・との思いを込めていた。病気の人が癒され、盲人の目が開かれ、ツアラアトの人が癒されて等々、人々の期待は益々増していたのである。

 神の国が来るなら、それは「いつ」なのか、「どこで」なのか、「どのように」なのか、そのような興味は、どの時代であっても、またどの国であっても尽きることがない。人々は「神の国が来る」ことを信じればこそ、「いつ来るのか」と問う。けれども、しばしばそのような興味と関心は、本質的なこととは別に、第三者的であったり、本気ではないことがある。主イエスは先ず、そのような的はずれな心を正すことから始められた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。」人々がどんなに熱心に待ち望み、そのために心を整え、行いを積んだとしても、それによって何かできる事柄ではない。神がご自身の支配を、この地上において完全に成し遂げられる時の到来は、ただ神だけが決めておられることなのである。

2、神だけが決めておられ、知っておられることと、繰り返し教えられても、それでもまた、「いつ」と尋ねてしまうのが私たち人間である。時には、それを知って、そのためにこそ備えたいと願う。将来の「神の国の到来」を信じるので、弟子たちは何度も、いつですか、いよいよですか、と問い返していた。長い教会の歴史においても、同じようなことが繰り返されている。主イエスの再臨を信じて、その再臨を一刻でも早めたいと願う人々がいる。また、再臨が近いから、この世では宝を蓄えるのは控えようと考えたり、控えるように教えたりもする、浮き足だった信仰に傾くことがある。地震や災害が続くと、世の終わりは近い!と強調され、再臨が近い!とばかり緊迫させられる。しかし、その時に関しては、神だけが知っていおられるのである。(マタイ24:36)

 人々は言う。「しるし」があるなら教えて下さい。予め分かるなら、それに備えることができます・・・と。他の人々が気づかなくても、私は気づいて備えをします、といかにも敬虔そうである。けれども、主は言われる。「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(※共同訳:「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」)神の国の到来を将来のこと、やがてのこととばかり考え、今を見据えていない・・・という指摘である。それは将来の実現を否定するのではなく、それとは別に、今実現していること、そのことを忘れると、この地上にあって、神によって生かされていることを見失うことへの警告であった。神はご自身の民を、今のこの世に送り出し、それぞれの務めを果たさせようとしておられる。神の国、神のご支配は、今この地上にある一人一人のただ中に、確かに実現しているのである。

3、この主イエスの教え、また警告は、今日の私たちもはっきりと聞くべきものである。私たちは、聖書を神の言葉と信じている。主イエスの十字架と十字架の死からの復活を信じている。復活の身体をもって天に昇られた主が、再び来られるのを待ち望んでいる。主イエスが再び来られる時、神の国、すなわち神のご支配が、全き形で実現すると信じている。ところがそのように信じている者たちが、真面目に信じて、真剣に生きようとしながら、その望みに生る余り、現実の生き方において虚ろになることが、教会の歴史の中で繰り返されているのも、残念ながら事実である。異端とされる人々にその傾向があるばかりか、聖書的に歩んでいると思われる人々の中にも、主の警告を聞くべきことがあるのは否めない。主の再臨の祝福に望みを託し過ぎ、地上の日々を軽んじかねないのである。(※テサロニケ第二3:6以下)

 主イエスの教えは、パリサイ人の問い掛けから始まり、次に、主が弟子たちに語り、私たちもはっきりと悟るように語られている。私たちは、主の祈りにおいて「御国が来ますように」と祈り、将来の実現を待ち望みつつ、今すでにこの地上に実現している「神の国」を喜んでいる。また自分自身の内に、神のご支配が確かに実現することを願いつつ、同時に実現していると信じている。主は確かに、「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません」と言われた。けれども、「いいですか」、「見なさい」「見よ」とも言われて、心の中のことではなくて、具体的な形で「あなたがたのただ中にあるのです」と言われた。それは人々の生活の中に具体的な現れとなっていることを意味していた。主ご自身が共に歩まれた事実、主が人々に手を差し伸べ、恵みを施された事実など、その幸いに気づきなさいと言われていたのである。

<結び> 主イエスが私たちにも望んでおられることは、私たちが、主が共におられることを信じて、今の世にあって、確かな歩みをすることである。今日の社会は、この日本のみならず、世界中が不確かな状況となり、何を頼りにしてよいのか、恐れと不安が増し加わっている。そのような時代にあって、どれ程に恐れが押し寄せても、主が共におられることの確かさは、決して揺るがない。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、主は言われた。(ヨハネ14:1)主イエスが共におられる幸いは、他の何ものにも代えることはできない。それは「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」との、神の国の到来であり実現だからである。私たちはこの確かさの中で、日々、生きるように、それぞれ世に送り出されているのである。この世にあって惑わされず、慌てず、騒がず、確かな歩みをさせていただきたい。