ヨシュア記2章では、1章とは違い、イスラエル人ヨシュアではなく、カナン人女性ラハブの信仰と、必死に主にすがる姿に焦点が当てられており、異邦人に対する救い、神がアブラハムに約束された「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世12:3) との約束の通り、異邦人にも救いが用意されていることが述べられています。今日はそのラハブに焦点を当てつつ、2章に現された神の御旨が何であったのかを見ていきたいと思います。
1. ラハブが斥候たちを助けたエピソードを字面だけで追うと、テンポ良くストーリーが展開されており、すんなりとラハブが斥候たちを助けたように感じられますが、実際はかなり緊迫していたのではないでしょうか。ヨシュアに送り出された斥候たちは遊女ラハブの家に泊まります(1節)が、すぐにエリコの王に「イスラエルの者たちが来た」と告げる者たちが現れ(2節)、エリコの王の使い達が、ラハブの家へやってきて「あなたの家に入った者たちを連れ出しなさい」(3節)と問いただすのです。エリコの最高権力者である王の使いがやってきたのです。この時点でかなりの緊迫した状況があります。しかしラハブは訪問者達から斥候たちを匿ります(4節)。しかも斥候たちの素性を知り、追っ手がかかると思ったラハブは、あらかじめ斥候たちを急いで隠していた(6節)のです。ラハブは彼らが何者か、どこに行ったのかと知らないと答え、彼らが町の外に出て行ったとごまかします(5、6節)。しかも「急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」と言い添えて。何とかして使者達が、自分の家を調べたりしないように必死に斥候たちを守ろうとしているのです。もし家を調べられたら、裏切り者として自分の命をも危険にさらすこととなってしまう、というかなりのリスクをラハブは犯しており、緊迫した様子がうかがえます。果たして使いはラハブの言葉をすんなりと信じたのでしょうか。彼らは信じました。しかし7節では単に「彼らはその人たちのあとを追って」と記されていますが、ヘブル語では7節の文頭に接続詞がついておりますので、文頭に「その結果」とつけて訳したほうが、ラハブと使い達のやりとりの緊迫感が伝わるものとなるのではないでしょうか。つまりラハブの決死の覚悟による言葉の結果、使い達はその言葉を信じて町の外に向かったのです。
2. 彼女が命をかけてまで斥候達を助けた理由は、斥候たちに対するラハブの言葉(9-13節)に記されています。ラハブはこの時すでにイスラエルの神、主を知っていた(9-11節)ことがわかります。それも出エジプトの際、葦の海の水を枯らされた主のことを。またイスラエルが、ヨルダン川東岸のエモリ人の二人の王シホンとオグの王国を聖絶したことを知っていたのです(10節)。(聖絶:その地のすべてのものをうち滅ぼし、主にささげること) また「主がこの地をあなたがたに与えておられること」(9節)とあるように、この地に住む者たちが聖絶されることを知っていたのです。それはこの地の住民みながふるえおののくものでありました。彼女がいかに恐れていたのかここからわかりますが、彼女はただ恐れていたわけではありません。神とイスラエルを恐れていたのは、他のカナンの住民も同様です。ラハブが彼らと違ったのは「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」(11節)という言葉で、これはまさにラハブの信仰告白と言えるものです。ここでラハブは、イスラエルの神を「主」呼び、主が天地万物の神であると告白しているのです!!ラハブは、この時カナンの神々ではなく、唯一の神、イスラエルの主を恐れつつ信じていたのです。しかし恐ろしい聖絶を免れるためには、主を信じ、神の民に加えられる必要がありました。だからこそラハブは、その告白に続く形で、自分が真実を尽くしたように今度は自分と家族に真実(恵み)を尽くしてほしいと、斥候たちを通して主に懇願しています。何とかして、というラハブの必死の思いがここから伝わってきます。斥候たちを匿っているこの緊迫した状況よりもさらに緊迫した状況が、ラハブの家にはすでにあったと言えます。彼女は自分と家族の滅びを目の前にして、本当におそれるものは天地万物の神、主であると知っていたのです。
3. そんなラハブの告白と懇願に、斥候たちは、私たちはあなたに真実と誠実をつくすことを命にかけて誓う、と約束します(14節)。 しかしそれには「私たちのことをしゃべらなければ」という条件がつけられていました。というのも、まだまだ斥候たちが無事ヨシュアの元へ戻るためには予断を許さぬ状況だったからです。第一に、門が閉じられていたからです(7節) 第二に、脱出したとしても、追っ手がすでに捜索している中、地理に疎い斥候たちでは追っ手に捕まる可能性が高かったからです。だからこそ彼女は家の窓から彼らをつりおろし、エリコの町から脱出させます。また「山地の方へ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこで身を隠していてください。」(16節)と言い添えます。そこで斥候たちは、ラハブへの彼らの誓いが守られるための3つの条件(17-20節)@窓に赤いひもを結んでおくこと A家族をすべてラハブの家に集めておき、決して出てはならないこと B斥候たちのことをだれにもしゃべらないこと を伝えます。特にBは、14節でも言われていましたが、もしラハブが斥候たちに不利な情報を漏らすのなら、山地に逃れている斥候たちはすぐにとらえられてしまう可能性が高かったからです。ラハブが斥候たちを脱出させ、斥候たちのことを話さないでおくことが、彼らが無事ヨシュアのところに戻るためには必要不可欠なことだったのです。ラハブは「おことばどおりにいたしましょう。」と言って、赤いひもを結び、誠実と真実を尽くして、誰にもしゃべりませんでした。この一連の行動を通して、彼女は自らの主への信仰を証明したといえましょう。そしてその結果として、追っ手に捕まることなく(22節)、斥候たちは、ヨシュアのもとに戻って、その身に起こったことをことごとく話せたのです(23,24節)。特に24節のラハブの言葉の引用は、斥候達がラハブの言葉とその信仰告白をいかに信頼していたのかを示しています。
4. この終始緊迫した状況に表されているのは、主を恐れ、すでに信仰を持っていたラハブが、その信仰を告白し、主の恵みに必死にすがる姿であり、斥候たちを助け、彼らに真実を最後まで尽くし続けたことによって、彼女の信仰が、真実なものであったことが証明されるものとなったことです。(ヘブル書11:31も参考に) また4、5節のラハブの嘘については色々なことが言われていますが、その是非にとらわれるべきではないでしょう。ましてや人助けの良いものとして取ってしまうと、ここで記されている主の恵みの計画を見落としてしまいかねません。と言いますのも、この2章にはイエス・キリストを指し示す、神の恵みの計画が記されているのです。1章ではヨシュアとイスラエルに焦点が当てられており、ヨシュアとイスラエルが神の言葉と律法に従う中で、約束の地を受け取っていくことが出来るというものでした。対照的に2章では、異邦人ラハブに焦点が当てられており、しかもラハブは斥候たちを助けるためとはいえ嘘をつき、律法においては十戒の第9戒に違反しています。しかしその信仰告白によって、救われる約束をいただき、その後も主に対して真実であり続けることによって、自らの信仰を真のものだと証明しています。ここにあるのは律法ではなく信仰によって救われたラハブの姿です。つまりこのラハブの記事は、律法の完成者なるイエスキリストの十字架の贖いの故に、律法ではなく信仰によって救われるという、神の計画を指し示しているものです。また「信仰による人々こそアブラハムの子孫」(ガラテヤ3:7)とあり、異邦人であっても、信仰を持っている者こそが救われアブラハムの子孫となる、つまり神の民の一員となるということなのです。異邦人がその信仰によって救われる、ここに神の大きな大きな恵みの計画、イエスキリストの贖いの十字架が示されているのです。
結び. 私たちもまた、ラハブと同様に主への信仰を告白し、救われ神の民に加えられた者たちです。信仰によって救われる、この神の恵みの計画を今、再度覚える時に震えるほどのものが起こらないでしょうか。と同時に、ラハブの信仰告白と、主の恵みに必死にすがる姿、またその信仰告白に相応しい振る舞いには、深い尊敬の念を覚えずにはいられません。ラハブの信仰は、彼女の信仰告白後も、斥候たちに対して真実であり続けたことによって真ととされました。換言すれば、主の恵みによって救われる時、信仰は行いをも伴ったものとなっていくのではないでしょうか。自らの信仰生活の原点に立ち戻りつつ、ラハブの信仰に倣いつつ、歩んで生きたいものです。
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