「エルサレムに上られる途中」の主イエスとその弟子たちの一行は、果たして、どれ位の数になっていたのであろうか。決して寂しげな一団ではなく、意外と目立っていたに違いなかった。北のガリラヤ地方から南に下るようにして、旅を続けていた。ガリラヤ地方からサマリヤの地方にさしかかり、その境を通られた時のことであった。ある村に入ると、「十人のツアラアトに冒された人がイエスに出会った。」(12節)彼らは、その病のために人々から隔離され、町には入れてもらえなかったが、図らずも、イエスの一行に出会う幸いに与かることになった。
1、「ツアラアト」は皮膚に発症する病で、以前は「らい病」と訳さた。その訳語により、「ハンセン病」を誤解することにもなったので、訳語にはとても注意が払われているが、実際に人々を悩ます病であった。(※共同訳:重い皮膚病)この病に罹ると、一定の隔離期間が必要なため、町の外に出されること、人に近づいてはならず、顔を被って道を歩かなければならなかったり、心痛む日々を過ごさなねばならなかった。ところが、その隔離された場所では、対立する他の民族の人とも、かえって心を開くことが可能になったり・・・があったようである。そのような人々が十人も集まり、遠くに離れたまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と、願い続けたのであった。(13節)
彼らはツアラアトに冒されて以来、何としても癒され、清められることを願っていた筈である。そして、イエスの噂を耳にしていたのである。そのイエスが来られたので、この時を決して逃すことはできないと考えた。彼らが聞いていた噂は、イエスが、いろいろな病に苦しむ人々を直されたこと、悪霊につかれた人を癒されたこと、またツアラアトの人には、彼にさわって直して下さったことなど、どれも心躍る事柄ばかりであった。もし自分の身に起るなら・・・と期待して、「どうぞあわれんでください」と声を張り上げたのである。遠くに離れたまま、近づかなかったのは、彼らが身を慎んでいたからであろう。それとともに、イエスに対する信頼を持ち合わせていたことも伺われる。徒に「癒してください、直してください」とは言わず、私も「さわって欲しいのです」とも願わなかった。ただ「あわれんでください」と願ったのであった。
(参照:ルカ4:35、40、5:13、15)
2、主イエスは、彼らに向かって、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われた。彼らの願いを聞き、また彼らの心の内にある信仰を見抜いておられた。彼らは躊躇うことなく、祭司の所へと向かった。それは律法に定められた通り、その病からのきよめのためには、祭司の見立てと宣告が必要だったからである。(※レビ13章〜14章:14:2、11)十人は、イエスの言葉を聞いて、疑うことなくそこを去った。イエスの言葉を信じたのである。すると「彼らは行く途中できよめられた。」(14節)十人が十人、何の躊躇いもなく祭司の所に向かったこと、それは驚きでもある。旧約聖書に登場するナアマンの経験が思い出される。彼は最初は疑い、次に信じて行動している。けれども、この十人は、初めから信じて従ったようである。(※列王第二5:1〜14)
十人とも、癒される信仰があったことになる。それだけでも素晴らしいことが起こっていた。けれども、「きよめられた」十人の内の一人は、「自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のであった。(15〜16節)彼も祭司の所に向かっていたが、自分が癒されたと分ると、たちまち引き返し、癒し主はイエスであると、その足もとにひれ伏したのであった。彼は「きよめられた」だけでなく、「いやされた」と気づいた時、癒して下さったイエスに感謝しようとした。単なる社会復帰より、主イエスに感謝し、天の父をあがめようと、それが自分にとっての、一番大切なことと直感したのである。そしてこの人は「サマリヤ人であった」と、記されている。
3、長い歴史を通じて、ユダヤ人とサマリヤ人との間には対立があり、サマリヤ人は神の民の主流とは見なされなくなっていた。本来の律法の教えからは遠い人々、それ故に神の祝福から遠い人々とされていた。異邦人、また外国人であるかのように、ユダヤ人はサマリヤ人を差別さえしていた。それで主イエスは、「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」と、問い掛けられた。(17〜18節)九人はユダや人であったからと思われる。ただ一人、「外国人」であった者、神の恵みからは遠いと思われた者が、神の恵みを感謝し、「神をあがめるために戻って来た」と主が認められた。その人は、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」という、主イエスからの確かな言葉をいただいたのである。(19節)
それは、確かな救いの宣告であった。(※共同訳:あなたの信仰があなたを救った)病が直って喜ぶに止まらず、直して下さった方にこそ感謝しようとしたその信仰は、神をほめたえる信仰であり、神をあがめる信仰である。他の九人も、それなりに確かな信仰があった。けれども、主イエスは、その彼らが戻ってはこなかったことに、幾分か寂しい思いをされていた。しかし、それは自分に感謝することがなかったと嘆いておられることではない。生きておられる神がこのことを成して下さったと、彼らがはっきり気づくことを願われたのである。ただ一人だけが、主イエスから、「あなたの信仰があなたを直したのです」との救いの宣告を聞いたわけで、この人の人生は、その日から劇的に変化したのは間違いない。本人も驚く程の勇気や力をいただいたに違いなかった。
<結び> 「あわれんでください」と願ったことは、決して空しくされることはなかった。病のいやし以上の、たましいの救いを受けることになった。私をきよめて下さるのは誰か、私を強くし、正しい道に導いて下さるのは誰か、そうしたことの一つ一つ、この人は明確に知ることとなった。私たちも、このサマリヤ人のように、私を導き支えて下さるのはどなたであるか、はっきりと知って歩んでいるかが問われている。もちろん知っている、分っているに違いない。けれども、この聖書の記述、この出来事が私たちに問い掛けているのは、やはり、信仰があるとしても、確かに神に感謝し、神をあがめ、イエスのもとにこそひれ伏しているか・・・である。
神は私たちの思いを越えて、日々祝福を注いで下さっている。日々に恵みを与え、御言葉を信じて従う者に助けを与え、道を開いて下さっている。ところが、ともすると自分の知恵や力を過信し、神に栄光を帰することを忘れるのが私たちである。癒されても、イエスのもとに戻ることのなかった九人のように・・・。神が豊かに報いて下さり、祝福して下さるなら、そのお方に心から感謝することを忘れずに歩みたい。私と共に歩んで下さる方、いつも傍にいて支えて、私を強くして下さる方、主イエスが共におられることを感謝し、神をあがめる信仰に生きる者としていただけるよう、日々、祈りを導かれたい。
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