私たちは、ガラテヤの信徒たちを“愚かで、道理がわからない”などと言えるでしょうか。私たちも、神様に義とされることについて“御霊で始まったことを、肉によって完成されようとする”(3節)ようなことをしていないでしょうか。3つの点から省みて、私たちがどのように神様に霊的なお取扱いを受けているのかを再度明らかにしながら、信仰による義を確かにしたいと思います。
1、まず、私たちが、神様に義とされることも、また義とされた後の歩みも御霊によっていることを再確認したいのです
「御霊で」というのは、神様の側から起こされた霊的な出来事であり、人の方から立ち上げたことでは全くないことを意味しています。すなわち、パウロは、人が神様に義とされることも、義とされた後の歩みについても、罪人を救おうとされる神様のご意志に基づいて、神様の求めておられる義を満たすように、神様の力とお働きによって起こされていると言っているのです。
とくに、パウロが「御霊で」といっているのは、私たちひとり一人をめがけて、力を現わされ、お働きくださる聖霊なる神様を強調しているからであると考えられます。私たちが義とされるのは、ひとえに御霊のお働きによることです(5:5)。
神様の力とお働きに、すなわち、聖霊に拠り頼んで、イエス様を義なる神の子と信じる者を神様は、義と認められたのです。
さらに、パウロは、「あなたがたが、御霊を受けたのは・・・」(2節)と言っていますが、ここではとくに義とされた者のその後の生き方もまた、御霊に拠り頼むべきであることを勧めているのです。私たちは、御霊によって義とされるだけではなく、義とされた後の生き方も御霊のお働きと導きによっていつもみこころにかなう者とされているのです。
私たちは神様の側から起こされる霊的な出来事の中に生かされてきましたし、これからも神様の霊的なお取り扱いの中に生かされていることを信じ続けたいと思います。
それとともに、御霊のお働きに心から感謝し、教会での交わりにおいて、生活の只中で御霊にある自由と平安(Uコリント3:17、ローマ8:6)をもって御霊なる神様を証することを願い続けたいと思います。
2、次に、私たちの心の内にある、“肉による完成”の思いについて省みたいのです。
ガラテヤ教会の信徒たちは、たしかに御霊を受けて新しい生き方を始めました。しかし、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人たちは、イエス様の十字架の他に割礼を施し、律法を行なうべきことを主張し、異邦人からの信徒にも強要し、イエス様の福音との間に摩擦を起こし、教会全体を混乱させます。
パウロは、この混乱の中にあるガラテヤ教会の信徒たちに、激しく問い、迫ります。あなたがたは、義とされることを肉によって完成させようとするのですか。そもそも神様に義と認められるという霊のことがらを肉によって得られるとでも思っているのですか。十字架につけられたイエス様をどう受け取っているのですか(1節)、とです。
私たち一人ひとりは、このパウロの問いかけに、正しくとはっきりとこたえられるでしょうか。礼拝や諸集会への出席、献金、教会への奉仕、交わり等の教会生活、信仰の歩みが、自分の義を立てるきっかけにいく分なりともしていないでしょうか。霊のことがらと肉のことがらとが入り混じっていることはないでしょうか。きっぱりと分けられているでしょうか。イエス様の十字架だけが、罪人の私の完全な死と完全な償(つぐな)いであることを受け入れているでしょうか。
ひとり一人が、自分の胸に手を置いて省みつつ、心をご覧になる神様の前に立ちたいと思います。
3、“御霊で始まったことだから、御霊によって完成さるべきです”ということがパウロが強く勧めたいことです。それは、どういうことでしょうか。
パウロは、イエス様の十字架からずれ、福音の真理(2:14)をまっすぐに歩んでいないガラテヤの信徒たちを問い詰めつつも、彼らが、「御霊を受けた」こと(2節)自体は、神様がなさったこととして全面的に受け入れています。いや、「御霊を受けた」ゆえにイエス様の十字架に立ち返るように厳しく迫っていると考えられます。
パウロが、ガラテヤの信徒たちに対して指摘していることは、彼らが、神様から受けた御霊に拠り頼んでいないことです。与えられている御霊に生きていないことです。恵みをむだに受けていることです(Uコリント6:1参照)。
御霊に拠らない生き方は、神の前では、即、肉によって生きていることを意味します。肉に拠る結果は、ガラテヤの教会全体が、イエス様の体を現わす、うるわしい秩序ある教会にはほど遠い、混沌と混乱の教会になってしまっていることです。
パウロが、五つの点にもわたって、ガラテヤの教会を激しく問い詰めた動機は、「御霊を受けた」者が、御霊に拠って生きるべきことを呼び醒(さま)すことにあったと思われます。ですから、当然のこととして、パウロは、こう言っているのです。神様に義とされ、御霊を受けて歩み始めたのですから、義とされた者にふさわしい歩みを御霊によって完成させていただきなさい。肉によっては、律法ののろいに喰い尽されるだけ、決して完成されることはない、とです。
ひるがえって、「御霊を受けた」私たちの信仰の歩みを省みたいのです。与えられている御霊に生きているでしょうか。御霊だけに拠り頼んで、義とされた者にふさわしい歩みを完成されたいと願っているでしょうか。御霊を悲しめていないでしょうか(エペソ4:30参照)。もし悔いるところがあるならば、肉によって軌道を修正するようなことをせずに、御霊によって真理へと、イエス様の十字架へと導いていただき、正しい道へと戻ってまいりましょう。
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最後に、パウロの言葉を心に刻みたいと思います。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」 (ガラテヤ5:16) |
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