礼拝説教要旨(2011.01.09)
なすべきことをしただけです
(ルカ 17:5〜10)
 
 ルカ福音書の17章以下、十字架を見据えてエルサレムへ向かっておられた、その主イエスのお心に触れながら読み進みたいと願っている。1節からの教えは、弟子たちにとって、「えっ!」と戸惑うものであった。「つまずきを起こさせる者はわざわいだ」と言い切り、「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら・・・」と語って、罪を犯す兄弟があるならば、戒めること、悔い改めに導き、赦すようにと、主イエスは命じておられた。一日に七度罪を犯しても、七度悔い改めてやって来るなら、「赦してやりなさい」と。教えを聞いていた弟子たちの間に、とてもできない・・・、自分たちには不可能なこととの思いが広がったようである。

1、弟子たちの戸惑いを代弁するように、使徒たちが主イエスに願い出た。「私たちの信仰を増してください。」(5節)当然と言えば当然のこと、信仰が増し加えられることがないならば、自分たちにはとても無理と思ったからである。既に信仰が与えられていることは分っていた。けれども、躓きを起こさないように心を配り、戒め合い、赦し合うまでによい交わりを築くのは、容易ではない、と直感したからである。彼らは、自分たちの不完全さには気づいていた。弱さがあり、欠けのあること、愚かであることも知っていた。信仰に関しても、常々、弱さや足りなさを感じていた。それで「私たちの信仰を増してください」、何としても「増し加えてください」と願ったのである。

 その願いに対する主イエスの答えは、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」であった。(6節)「信仰を増してください」との願いを聞かなかったかのように、「からし種ほどの信仰があったなら」と語って、信仰のあるなしを問い、もし信仰があるなら、「からし種ほどの信仰」で十分との視点に気づかせようとされた。本物の信仰があるかないか、本物の信仰なら、必ず生きて働くことを知りなさいと。実際に、信仰について、それが大きいか、小さいか、強いか弱いか、また、熱いか冷たいか、その量や質が問われるのは確かである。そして、質より量の点を問い易く、とても不可能なことも、信仰が増し加えられるなら、可能となるのではないか・・・と期待する。けれども、大切なのは「本物の信仰があるかないか」なのである。

2、主イエスは、本物の信仰、また生きた信仰を明らかにするため、たとえを話された。(7〜10節)しもべと主人との関係を通して、私たちと神との関係を正しく捉えること、神の前に、弟子として、またしもべとして仕える者は、どのような存在であるのかを、もっともっとよく知りなさい、と主は言われた。しもべの立場は、どんなによく働いても、それで誉められるわけではない。主人は、よく働いたしもべに、殊更に感謝するわけでもない。それ故、果すべき仕事を終えた後に、しもべが言うべき言葉は、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」であると。教えを聞く者たちに、主人の立場になって考えること、また、しもべの立場になって考えることを求め、最後に、神に対するしもべとしての自分を理解させようとされた。

 「自分に言いつけられたことをみな、してしまった」としても、「『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」と主は命じておられる。(共同訳:取るに足りない僕 口語訳:ふつつかな僕)命じられた仕事を全て果しても、なお「なすべきことをしただけです」と言うのは、人にとって、難しいことである。けれども、神の前での人間は、それ程に、はっきりした主従関係があって、神の前での自分を、徹底的に「しもべ」とし、仕える者であることを自覚すること、その信仰があるなら、それは「からし種ほどの信仰」で十分と、主は言われたのである。しもべの立場、仕える者の立場は、「自分に言いつけられたことをみな」果たしていても、それでも「私たちは役に立たないしもべです」と言うのは、この世の人々にとって、理解し難いもの。弟子たち、使徒たちでさえ、複雑な思いであったに違いない。

3、けれども、キリストに従う弟子たちにとって、神の前に、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」との告白を、はっきりと言い得ることは、何としても必要なことであった。この生きた本物の信仰があることによって、つまずきに対処することが可能となり、罪に対する戒めや、悔い改めと赦しの道が開かれるからである。神からの力が働く時、人には不可能なことが、可能となるのである。一人一人が身を慎むことも、互いに愛し合い、赦し合うことも、本物の信仰によってのみ可能となる。もっと信仰があったら、もっと強く、大きな信仰があるなら・・・と自分の不足を嘆く必要はなく、反対に、人より強い、大丈夫・・・と自己暗示することもいらない。神が私を捉え、しもべとして生かしてくださるなら、その神に、心から従いたいと、その信仰が与えられていることを感謝することが大事なのである。

 わざわざ、主がこのような教えを語られたのは何故か。弟子たちの中で、使徒たちが、「信仰を増してください」と願い出ていた。今日においても、私たちは、人と比べて自分の信仰を推し量ることがある。世の人々が、イエスに従おうとぜず、教会に足を向けようともしない時、私たちは不思議にも教会に導かれ、イエスを信じる信仰に導かれた。自分に信仰が与えられたことを感謝する反面、人々は何故拒むのかと、次第に優越感を抱いていることはないだろうか。また、熱心に教会の務めを果す内に、自分で自分を誉めるような落し穴のあることに気づかされる。主イエスは、ご自分が歩まれたように、弟子たちも歩むように、心を低くして神に仕え、人にも仕える道を教えようとされていた。神を信じ、神を愛し、神に仕える者しもべとして、地上の生涯を歩み抜いて欲しいと、心から願っておられたのである。

<結び> 主イエスは、弟子たちに、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい、と命じておられるが、私たちが信じている神は、このたとえの主人とは違っていることも教えておられる。私たちは、神から感謝されることなど、何一つできないとしても、慎みをもって神にお仕えし、「なすべきことをしただけです」と心から言うなら、「よくやった。良い忠実なしもべだ。・・・主人の喜びをともに喜んでくれ」と、思いに優る言葉を掛けていただけるのである。もちろん、その言葉をいただきたいと労するなら、また横道に逸れるに違いないが。(※マタイ25:21、23)

 生ける真の神は、そのように私たちに報いて下さる方であるからこそ、私たちはこの方に、心からお仕えする者として歩むように、召されているのである。私たちは信仰の大小や、多い少ない、強い弱いに心を騒がすことなく、生ける本物の信仰のあるなしを大切にしたい。本物の信仰があるなら、その信仰は、「からし種ほどの信仰」で十分と信じて歩みたい。そして、なすべき務めを果しても、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と、謙遜に言える者として歩ませていただきたいものである。