ルカ福音書は、9章20節に弟子たちを代表したペテロの信仰告白を記し、28節以下に、祈るために山に登られた主イエスが、白く光り輝く姿に変貌された出来事を記している。主イエスはその時、ご自分が何のために世に来られたのか、改めて確認しておられた。そして、51節以下、エルサレムに向かう旅に、「御顔をまっすぐに向けられた」のであった。エルサレム行きは、明らかに十字架への道のりであった。その間に語られた教えは、19章27節まで、罪の赦しへの招きであり、また赦された者が、キリストの弟子としてどのように生きるのか、大切な教えが散りばめられている。昨年の秋、15章以下を読み始めたが、引き続き読み進んでみたい。4月のイースターに向け、十字架を見据えられた主イエスのお心に思いを馳せながら・・・。
1、15章、16章とも、たとえ話によって人々に語り、また弟子たちに語られた主イエスは、17章では、特に弟子たちに向かって語っておられる。いろいろな教えが入り組むように語られ、弟子としての生き方、弟子たちが確かに神の民として生きるには・・・等、今日の教会のあるべき姿にまで、その教えは及んでいる。主イエスは弟子たちに次のように語られた。「つまずきが起るのは避けられない。だが、つまずきを起こす者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(1〜2節)「つまずき」とは、人が自分の責任で何かに躓くことではなく、他の人に罪を犯させたり、信仰を失わせたりする、その原因となる「つまずき」のことである。
だから、つまずきが起るのは避け難いとしても、「つまずきを起こす者はわざわいだ」と言い切っておられる。すなわち、主イエスの弟子たちの間で、どんなに注意を払い、それぞれが自分を厳しく戒めていたとしても、それでも「つまずき」が生じる。それ程に一人一人は、弱さがあり、脆さがある。そのことを認めて、互いに弱さを認め合って、他の人に躓きをもたらすことのないように、心すべし、と主は言われたのである。「この小さい者」は誰のことであろうか。その場にいた小さい子どものことか、それとも世間で余り認められていない人のことか。いずれにせよ、弟子たちの間でも、誰が一番偉いのかとの論争が起るので、「この小さい者のひとり」と言われるような人がいたことが、十分に考えられる。
2、主イエスにとって、全ての人が尊い存在であり、大きい小さい、高い低いはない、大切な一人一人である。失われた一人を尋ねて、捜し出すまでは、決して諦めることはなさらない。いなくなった者がいたら、必ず帰って来ると待ち続けて下さる。その一人のために、十字架でご自分の命を捨てるためにこそ、世に来られたのである。支払われる代価は、何にも代え難いもの、ご自分の命であった。これ以上のものはない。それ故に、「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら。そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」と、極限のことを語っておられる。一人の人が神に出会い、キリストの弟子となり、神に従って歩み始めるならば、その人の歩みを妨げるもの、危うくするもの、「つまずき」は何としても避けるよう、互いに心配りをせよ、と主は語られたのである。
それでも、人は過ちを犯す。悲しいことに罪を繰り返す。弟子たちの間で問題が生じ、兄弟に対して罪を犯し、兄弟を悲しませることは必ず起る。主は言われた。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(3節)弟子たちの間にも、厄介な事柄は必ず生じると、主は認めておられた。その時に大切なのは、罪を犯した者を「戒める」ことであり、悔い改めるなら「赦す」ことと言われた。弟子たちの間で、一人が他の誰かに対して、具体的な罪を犯して痛みを加えたり、悲しい思いをさせることが起るなら、その兄弟を戒めること、そして悔い改めるならば、赦すこと、その赦しに至ることこそを追い求めなさい、と主は弟子たちに命じておられるのである。
3、多くの人の傾向は、何かの罪が見出されると、たちまちのように「戒める」ことに偏るようである。戒めること、裁くことには、とても熱心になり易い。弟子たちの間でも、戒めることに心は向き易く、赦すことには心を傾け難いことがあったのであろう。主イエスは、「赦し」について、「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と命じられた。(4節)弟子たちの間では、「赦し」にこそ、心を傾けなさいと。「一日に七度」というのは、とても考えられないことである。同じ罪を繰り返し、その都度「ごめんなさい」と謝られても、次第に、その「悔い改め」を信じられなくなるのではないだろうか。赦しなど論外!!と憤りさえ抱きかねないことである。(※マタイ7:21〜22「七度を七十倍するまでと言います。」)
けれども、主は言われる。「赦してやりなさい。」弟子たちの間で必要なこと、それは赦しであると。もちろん、悔い改めなしに、赦すのではない。ともすると、今日の教会において、問題が生じた時に、戒めることもなく、また悔い改めることを疎かにして、互いに赦すことだけが求められ、かえって問題がこじれることがある。「裁いてはならない」という教えも曲解され易く、罪有る者が、決して悔い改めず、神の前に悔いることなく、罪を重ねることが起る。弟子たちが心に留めるべきことは、私の罪を赦すために主イエスが来られたことである。その主イエスが求めておられるのは、互いに、自分の罪や弱さを、また愚かさを認め、罪や過ちを犯したなら、自ら進んで悔い改めること、また戒めること、そして互いに赦すこと、そこに赦し合う交わりが生まれることであった。弟子たちはそのことを求められていたのである。
<結び> 今日、私たちが耳を傾け、心の扉を開けて聴くべき教えは何であろうか。それは主イエスが、どんなに小さな人であっても、人を分け隔てなさらなかったこと、小さな子どもも、この世で見捨てられた人をも、それはそれは大事になさったことを、私たちがしっかりと心に刻むことである。失われた罪人を捜して、救うために来られたお方は、どんな小さな者をも躓かせることなく、心にかけ、愛し、罪の赦しを与えようとしておられた。私たち一人一人、このお方の愛に触れて、心を動かされたのである。その私たちは、この方に習う者、似る者に変えられることを喜びとする筈である。主イエス・キリストの十字架の贖い、身代わりの故に、罪を赦された者として、互いに赦し合う交わりを、私たちは期待されていることを覚えたい。教会はこの地上にあって、キリストの愛と赦しの満ち溢れる所となること、これに優ることはないからである。(※ヨハネ13:34〜35)
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