礼拝説教要旨(2011.01.01)
苦しむとき、そこにある助け
(詩篇 46:1〜11)

 元旦礼拝において、主が何を語って下さるのか、そして、私たちが何を聞くのか、今年も大きなチャレンジを受けている。昨年は、神に信頼すること、神を信じて平安を得ることを心に留めて歩み始めたが、果たして、どのように一年を歩んだであろうか。この日本の社会は、以前にも増して混迷を極めているようである。民主党政権は、残念ながら国民の期待に応えているとは言い難いく、先行きの不安は、益々大きくなっている。世の中の矛盾は数限りなくあり、何を頼りとすればよいのか、人々の心は騒ぐばかりである。私たちの心も、つい確かなものを見失い、心を騒がせていることはないだろうか。

1、詩篇46篇は冒頭において、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」と歌い、「それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」と、神に信頼する者の幸いを歌い上げている。大きな地震により山々が崩れ去ることがあっても、また大水に地が飲み込まれることがあっても、それでも神を信じる私たちには、神が助け主として、すぐ近くにおられることを知っている!と、心を込めて歌うのである。人は誰でも、恐れる時、困った時、また、悲しむ時に神を呼ぶ。その時、ただ徒に神を呼ぶのと、自分の信じている神を呼ぶのには、大きな違いがある。その違いは、苦しむとき、「そこにある助け」かどうかである。(1〜3節)

2、世の多くの神々は、どれだけ人にご利益をもたらそうとも、その神のもとに人が行って、そこで人が金品や行為を捧げることを求めている。(※初詣の仕組みはもちろん、多くの新興宗教を見れば分ること。)けれども、真の神は、神を信じる者、神とともに歩む者と「ともにおられる」方である。それ故、助けを呼ぶ者には、「夜明け前にこれを助けられる」方、速やかに手を差し伸べて下さるお方なのである。神に頼る者の心には、神がもたらして下さる平安が、大河ように流れるからである。人々がどんなに騒ぎ立ち、国々が敵対して争い、今こそ国の安全を守らねば・・・と大騒ぎしても、神がともにおられる者の平安を破るものは、地になし!である。(4〜7節)

3、この詩篇は、神がご自身の民イスラエルを不思議な力で助け、外的から守られた経験を思い返し、神に頼る者の幸いを高らかに歌うものである。自然界の大変動があろうと、国と国、人と人との争いが起ろうとも、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」(7節)この揺るがない神の助けがあるので、後の日に、激しい戦火が燃え上がり、人々が逃げ惑う災いに巻き込まれることがあっても、それを鎮めて下さる神がおられることを見失うことはない。生ける神は、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」と、宣告しておられる。イスラエルの民の歴史の中で、何度となく、神は民を助け、しかも不思議な助けを与えておられた。民はただ神を待ち望むだけで!
(8〜11節、※ヒゼキヤの時:U列王19:35、ヨシャパテの時:U歴代20:3、22、29〜30)

<結び> 「苦しむとき、そこにある助け。」(口語訳:悩める時のいと近き助けである 文語訳:なやめるときの最ちかき助なり)助けの近さとは何であろうか。「神は夜明け前にこれを助けられる。」夜明けとともに助けがあるというのでなく、夜の明ける前に助けの手を伸べて下さるとは何か。神が助けを呼ぶ者のすぐ近くにおられ、呼べば速やかに助けを与えて下さるのは、神がご自身の民と「ともにおられる」からである。その確かさは、祈りを聞いて下さることに明らかである。いつでも、どこででも祈ることのできる幸い、この幸いこそが、私たちの幸いである。神は私たちとともにおられる。必ず祈りを聞いて下さる。それで、「神はわれらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない・・・」と、歌うことができるのである。(※ルターはこの詩篇をもとに讃美歌を作ったという。)