救い主としてお生まれになった幼子イエスのもとに、一番に駆け付けたのは羊飼いたちであった。次に幼子に会ったのは、シメオンとアンナという老聖徒たちであった。二人とも幼子を一目見て、主が成して下さる救いを確信し、エルサレムの宮で主をほめたたえた。(ルカ2:22〜38)その後、マリヤとヨセフは、ベツレヘムで幼子イエスを育てることになり、しばらくは静かな日々を過ごしたようである。ルカ福音書では、律法に定められたことを果した後、ナザレに帰ったと記しているが、マタイ福音書では、ベツレヘム滞在中に、博士たちの訪問があったことを記している。イエスの誕生から、一年以上が経っていた頃のことと思われる。
1、「東方の博士たち」、彼らは、旧約聖書の時代にユダヤ人たちが捕囚として連れて行かれた、アッシリヤやバビロンの地方の占星学者、また天文学者たちと考えられている。旧約聖書の預言には幾らかの知識があり、「ユダヤ人の王としてお生まれになる方」、「メシヤ」について、ある程度の知識があった。空を見上げ天体の動きを観測していた時、「その方の星を見た」ので、早速のようにエルサレムへとやって来たのである。彼らは、「その星の上るのを見た」と、王の誕生を確信してやって来た。仲間たちを集め、恐らく三人以上はいたと思われる一団となって、先ずはその時の王、ヘロデの前に進み出て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。・・・」と告げたのであった。(1〜2節)
彼らは、単なる表敬訪問ではなく、「私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」と、この旅が「礼拝」のためであると語っている。ただお祝いするためではなかった。王を礼拝するのは、その王を心から敬うのみならず、この方に全幅の信頼を寄せ、この方にこそお仕えしたいとの思いを込め、その王の前に進み出ることであった。その意味で、ヘロデの前での博士たちの態度は、「あなたではありません!」、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を尋ねているのです!!」というものであった。それでヘロデの恐れと、戸惑いは大きかったのである。また、エルサレムの人々の動揺も大きいものであった。ヘロデの残忍な性格を知る人々には、この先に起ることが予測され、心を痛めることになったからである。(3節)
2、ヘロデは、博士たちが尋ねる「ユダヤ人の王」とは、旧約聖書に約束されていた、「メシヤ=キリスト」のことと理解した。そこで、王は、民の祭司長たちや律法学者たちをみな集め、「キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」メシヤの到来については、その家系はもちろん、出生の地についても預言されていて、旧約聖書をよく知る者は、それを心に留めて待ち望んでいたのである。民の指導者たちにとって、「ベツレヘム」と告げるのは難しくはなかった。ヘロデは、「べツレヘム」と聞いて、一安心したようである。後は手はずを整え、新しい王を亡き者とするのは時間の問題と考えたのであろう。博士たちを呼んで、彼らを先にベツレヘムへと送り、その時、「私も行って拝むから」と、心にもないことを語っていた。(4〜8節、※ミカ 5:2)
特別な星の出現によって、博士たちに「王」の誕生を告げておられた神は、今度は、その星によって、彼らを幼子のいる所に導かれた。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(9〜10節)不思議な導きを感じながら、確かにそこに「王」がおられる、と確信することができたからである。王なる方は、今はまだ小さな幼子に過ぎなかった。けれども、彼らはこの方に仕えるため、そして、この方に自分をささげる思いを込め、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげ、「ひれ伏して拝んだ」のであった。その時にできる、最高の宝をささげての礼拝であった。恐らく宝の箱の一部ではなく、用意した物の全てを、惜しむことなくささげる、そんな礼拝であったのではないだろうか。(11節)
3、幼子を拝した博士たちに、神は、「夢でヘロデのところへ戻るな」と命じられた。それで彼らは「別の道から自分の国へ帰って行った。」(12節)神は、ヨセフにも夢で、「立って、幼子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい」と命じておられた。(13節)神を信じることなく、その神に敵対する者がどんなに策を弄しても、神の御手の業は決して揺るがない。生きておられる神の御手の守りは万全であった。人が成すこと、また、人にできることは限られていても、神の前に進み出ること、神を信じて従い続けること、そのことは必ず報われることが、この博士たちの訪問の出来事に明らかにされている。何とかして、ひたすら王を拝したいとエルサレムに来て、そしてベツレヘムへと向かった博士たち、彼らの姿は、私たちに、幼子イエスを救い主として礼拝するだけでなく、この方を王として礼拝する心を教えてくれるものである。
ヘロデは、口では「私も行って拝むから」と言いつつ、全くその気持ちのない人の代表のようである。初めから、自分の身を守ること、ただそれだけが最重要であった。自分の今の生活を何一つ変えたくない、そんな人の姿が浮かんでくる。王である方を決して受け入れたくない人である。民の指導者たちは、聖書を知っていながら、一番肝心なことには目を伏せ、心を閉ざす人の代表であった。メシヤを待望していたにも拘わらず、ベツレヘムに出かけなかったようである。何故か。本当の意味で聖書に聞くことをしていなかったからである。よくよく考えると恐ろしいことである。(※ヨハネ5:39〜40) 「王である方」の、「王」としての性質を捉え切れなかったことがその理由である。この世の力ある「王」を追い求め、真の「王」である方を理解できなかったのである。
<結び> 神である方が、人となって世に来られたこと、高きにおられた方が、いと低くなって、人の所に降りて来られたこと、そのことがベツレヘムの飼葉おけに成就していた。また博士たちの礼拝のその場にも、そのことが成就していた。「王である方」でありながら、決して王に相応しくない場所におられ、マリヤとヨセフに見守られる、幼子の姿でそこにおられた。人としてのありとあらゆる労苦を忍び、やがて十字架で身代わりとなって死なれるために、幼子イエスはお生まれになっていた。その幼子を、博士たちは「王」として拝したのであった。
私たちも、「王としてお生まれになった方」、十字架の死によって、私たちを罪から救って下さる、主イエス・キリストを心から信じて、この方にこそ、私たちの全てをささげて、生涯かけて従い通したいとの思いを、一層確かなものにしていただきたい。私たちの日々の幸いも、この世界の平和や希望も、このお方を王と信じ、心から礼拝することによってのみ、もたらされると信じるからである。
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