毎年、必ず巡ってくるクリスマス・・・、私たちは今年、どのような思いで迎えることができたであろうか。それぞれに思い出のクリスマスがあるに違いない。そして、クリスチャンになる前と後では、随分違ったクリスマスとなっているのではないだろうか。今年は、12月になってすぐクリスマスの聖書個所を開かなかったので、いつもと、また少し、気持ちが違っているかもしれない。いろいろな思いが交錯する中で、先週に続いて、最初のクリスマス、救い主のお生まれの出来事に目を留めてみたい。
1、聖霊によって、男の子をその胎に宿したマリヤ、そのマリヤを妻として迎えたヨセフ、この二人は、神を信じ、神に従う夫婦として歩みを始めていた。二人して、「神にとって不可能なことは一つもありません」という御使いのことばを、確かな拠り所としたので、これから後に起ることを引き受け、神に身を任せることができたのである。実際に二人に降りかかったことは、私たちが想像する以上に過酷で、耐え難いことが多かったに違いなかった。けれども、聖書はそうした事柄には余り触れていない。ただヨハネの誕生に神の御手が働いていることを明らかにし、筆を進めている。マリヤもヨセフも、神に従うことにおいては、決して揺るがなかった。特に母となるマリヤは、エリサベツの存在と経験に大いに支えられていたのである。
ヨハネの誕生に神の御業を見て、大きな励ましを得ていた二人に、厄介なことが圧し掛かっていた。それは「全世界の住民登録をせよ」との勅令であった。その命令に従って、「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。」マリヤとヨセフは、ガリラヤのナザレから、ベツレヘムへと旅を強いられることになった。時のローマ帝国は、皇帝アウグストによって繁栄がもたらされ、人々は平和を享受する幸いを得ていた。けれども、一方で平和と繁栄がある時、他方では屈辱や隷属が強いられるのは避けがたく、旅する二人は、如何にも弱々しい民の姿でもあった。身重の妻を連れての移動、およそ百キロメートルの旅は、途中、山越えや川越えのある険しいものであった。その過酷さの故もあったのか、「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。・・・」のである。(1〜7節)
2、どんなにか大変な思いをしたことか・・・と、つくづく思わされる。人の命が母の胎の中で育まれる時、その命は大変な危険にさらされていること、そして出産に際する命の危険も、実はとても大きいことを知らされると、この幼子の誕生は、人がこの世で生きる上での様々な危機を、何一つ避けたり、省略することなく、その全てをしっかり引き受けての誕生であったと知るのである。「名をイエスとつけなさい」と告げられていた幼子は、確かに人となって、人の居る所に近づくため、人の弱さや脆さを身に帯びて、この世にお生まれになったのである。そして、確かにお生まれになったことが、その夜、羊の群れを見守っていた羊飼いたちに知らされた。大きな喜びの知らせとして、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。・・・」と。(8〜12節)
神であられる方が、そのあり方を捨て、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられたこと、それが飼葉おけのみどりごのお姿であった。そこまで卑しく、低くなられたことが、羊飼いたちに知らされた。「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」(ピリピ2:6-7)彼らは、当時、人々から蔑まれ、疎んじられる職業に就く者として、社会生活においては疎外された者たちであった。身なりを整え、神殿の礼拝に向かうことなど、決してできなかったからである。けれども、旧約聖書の教えには心を傾け、救い主が来られるのを待ち望む日々を送っていた、と考えられる。彼らは、神殿で犠牲とされる羊のため、その地で羊飼いとなっていたとも考えられるからである。全てを知っておられる神は、御使いを彼らに遣わし、喜びの知らせを彼らに告げておられた。約束の救い主、キリストは、「あなたがたのために、お生まれになりました」と。
3、この羊飼いたちは、御使いと一緒に現れた、天の軍勢の賛美を聞き終わると、迷うことなく、「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と、互いに話し合い、急いで出かけた。ここにも彼らの心が神に向き、御使いの知らせを、しっかり受け留めている姿を読み取ることができる。彼らは仕事の真っ最中に、この喜びの知らせを受けている。普通、人は仕事中、なかなかその仕事を中断したくないものである。けれども、彼らはその仕事を中断して、「主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と立ち上がった。彼らの決断と行動は、「マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた」ことによって、大いに報われた。その喜びは大きかった。(13〜19節)
彼らの喜びは、「きょう」、確かにお生まれになった救い主にお会いし、目で見て、手で触れもし、その泣き声を耳で聞いたことにあったかも知れなかった。しかし、何よりも嬉しかったことは、「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだった」ことにあった。それは、その知らせを神からのものと信じ、神である主が、私たちに知らせてくださったと喜んだからであった。何故に自分たちに知らされたのかは分らずとも、神が私たちに知らせてくださったと喜んだので、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)彼らは賛美とともに、御使いから「この幼子について告げられたこと」を人々に知らせていた。マリヤとヨセフ以外にも、近くにいた人々に語っていたと想像できる。彼らは、救い主のお生まれを告げ知らせる役割も、しっかり担っていたと考えられるのである。
<結び> 幼子は八日目にイエスと名づけられた。マリヤとヨセフは、御使いに告げられていた通りに、「イエス」と名づけた。その名には「主は救い」との意味があり、幼子は、確かに来られた「救い主」、「キリスト」であった。この方のお生まれを心から喜び、心から祝うのがクリスマスである。私たちは、確かにこの方にお会いして、救いの喜びに与っているだろうか。クリスマスがただの喜びではなく、本当の喜びの日となっているだろうか。幼子のイエスは、やがて十字架の上で身代わりの死を遂げる方として、この世に来られた方であった。そのことを思う時、クリスマスの喜びは、ただ嬉しく楽しいだけでないことを覚えたいと、心から願うものである。
今年は、この礼拝において洗礼式が行われることが、格別の喜びであり、感謝に溢れるクリスマスを迎えることができた。今一度、一人一人が、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」との言葉、また、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ 1:21)との言葉を、自分に語られた大切な言葉として心に刻みたい。私たち一人一人が、罪の赦しを得るためにこそ、主イエスはお生まれになったこと信じ、その喜びの知らせを、私たちも告げ知らせる者とならせていただけるように!
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