来週はクリスマス礼拝ですから、今日はその直前の主の日にあたります。マタイの福音書は、イエス様がお生れになる直前の様子をヨセフを中心に伝えています。
その様子は、イエス様のご生誕が、聖霊によることであるとともに、信仰の出来事であることを教えています。救いの真実を示され、信仰を導かれる神様。その神の真実に信仰をもって答える登場する人たち。真実と信仰が行き交う中での出来事であったからです。この直前の出来事から3つのことを教えられ、私たちの信仰を省みる機会にしたいと思います
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1、まず、聖書が語っている順序に従って、マリヤに与えられた信仰の真実を見つめたいと思います。
聖書は、おとめマリヤが、聖霊によって身重になっていることがわかった、と記しています(18節)が、誰がどのようにしてわかったのかについては触れていません。
神様が必要とされてなさったことですから、私たちは聖書が触れないままを受け入れたいと思うのですが、少なくともヨセフにだけはわかったことはたしかです(19節)。しかし、ヨセフにわかって、身重の当事者であるマリヤにはわからないというのもあまりに不自然であると思うのです。とすれば、二人ともに、おとめが身重になったことは、わかったと言えるのではないでしょうか。
もし地上の命の常識が許されるならば、最初にわかったのは、むしろマリヤの方ですし、ヨセフは、マリヤを通してわかったのではないでしょうか。
しかし、二人ともに聖霊によるということは、わかったでしょうか。少なくともヨセフは、わからなかったと考えられます(19節)。しかし、聖書は、「わかった」者が、ひとり以上いたことを暗に示しています。「わかった」(18節)と言い切っているからです。
マリヤ以外には考えられません。たしかに、聖書は、このマリヤがどのようにしてわかったのかについても、全く触れていません。少ない手がかりを基にして、マリヤの信仰とその行いに思いをめぐらしてみたいのです。
マリヤは、自分がおとめであることと、身重であることの厳然とした事実を前にして、しかも命がけの事態を前にします。15歳にも満たないであろうマリヤに出来ることは、これまで教えられてきた神様を幼子のように信じ、神様との交わりの中に光が見出せることを信じ、生きることを神様にゆだねることであったと思います。イザヤの預言「見よ。処女がみごもっている。」(7:14)をマリヤはどう覚えたでしょうか。どのような深い、切実な神様との交わりが、どれほど続いたのでしょうか。
しかし、ついにマリヤは、この事が神様のお働きによる、聖霊による出来ごとであることを啓示され「わかった」思うのです。ちなみに、「わかった」という言葉は、切実な経験を通して深く考え、広く思い巡らして、見出す、悟るという重い言葉が用いられています。マリヤは、ヨセフに聖霊によって身重になっていることを神様の真実にあって告げたと思われます。
イエス様のご降誕は、このマリヤの命をかけた真実な信仰の中に起こされた出来事であったことを覚えたいと思います。
2、次に、この出来事の中心人物であるヨセフの信仰に注目します。
先ほど触れましたように、おとめマリヤが身重になっていることについて、間接的にではありますが、聖書が「わかった」と記しているのは、ヨセフだけです。
ヨセフは、マリヤを許嫁(いいなずけ)として幼い時からずっと見てきました。そして神様のみこころであることを確信し、自分の信仰の良心にもかなっていることであり、マリヤもヨセフを正しい人と受け入れてくれたので、マリヤとの婚約を決めたのでした。しかし、ヨセフには、聖霊によっておとめが身重になることは、マリヤの告げたことだけでは理解できない、わからない出来事であったのです。ヨセフにはマリヤが、自分を裏切り、罪によって身重になっているなど思いもよらないことですから、二つの動かしがたい現実の間に関連を見出せないまま悩みぬいたことが想像できます。そして、ヨセフが出した結論は、マリヤとの婚約を解消し、離縁状を渡してマリヤと離縁することでした。こうすれば、マリヤが姦淫の罪を犯して、律法違反で裁かれ・さらし者にされ、見せしめの石打ちの死刑を免れると考えての決断でした。
それでもヨセフは、さらに悩みながら思いめぐらし、考え続けたでしょう。それとともに決めたことを実行に移す時を模索していたと考えられます。「思いめぐらす」という言葉は、“中で”という前置詞と“魂”という名詞が合成されて出来ている言葉です。正しい人ヨセフはさらに深く、広く考え、神様のみこころに思いを巡らして続けていたのです。一方で、マリヤが身重であることが公になる可能性は、刻々と迫っていました。
この差し迫った時に神様は、ヨセフとの交わりを起こされ、真実を示されます。ヨセフは、主のみ使いの言ったことが、マリヤが自分に告げたことと同じであるばかりではなく、これから生まれてくるのが息子(養子)であること、名が与えられ、その名が意味する使命が明らかにされたことに圧倒され、神様を恐れます。
ヨセフは、主が命じられた通りに、マリヤとの婚約の期間を切り上げて、マリヤ
を迎え入れ (元の言葉は、“傍らに取る”)、結婚に至ったのです。
神様のなさる真実に圧倒され、神様を恐れ神様にすぐに従う。これがヨセフの神様に対する真実な信仰です。ヨセフの信仰がなければ、イエス様は、ダビデの子孫ではなく、マリヤの私生児となるところでした。あるいは、最悪であれば、母子ともに命を絶たれる可能性もあったのです。イエス様は、ヨセフの真実な信仰の中で、この世に来られたのです。それは、イエス様が、最も弱い者、最もへりくだった者の姿、胎児のかたちで来られたからです(ピリピ2:6-7参照)。
このことをもう一度深く覚えつつクリスマスを待ち、迎えたいと思います。
3、最後に先ほどの、「招きのことば」(ヨハネ1:14)もう一度ふれます。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
神様は、私たちに「恵みとまことに」満ちた方、慈しみと真実に満ちた方、イエス様を贈ってくださいました。私たちはこの慈しみと真実に、神様への信仰をもってお応えしつつ生きる者でありたいと願う者です。
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