礼拝説教要旨(2010.12.05)
今ここで彼は慰められ
(ルカ 16:19〜31)

 「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。」(14節)主イエスは、パリサイ人たちに向かって、厳しく語られた。それは全ての人にも当てはまることであった。神は、全ての人の心をご存じなのである。人が心で何を考え、何を一番大切にして生きるのか、イエスは、続けてたとえによって教えようとされた。心で何を考えるのか、そしてどのように生きるのか、人の評価と神の評価は大きく違っている・・・と。

1、「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」(19〜21節)金持ちは高価な上着はもちろん、亜麻布の柔らかい下着をまとって、贅沢三昧の日々を過ごしていた。ところがラザロは、その金持ちの門前で、全身のおできと空腹に苦しみながら寝ていた。毎日、金持ちの有り余る食卓から落ちるもので「腹をみたしたい」と思っていたものの、実際には満たされることなく、おできをなめる犬によって、わずかな慰めを得ていた。捨てられたものをあさり、それを食べていたに違いないが、金持ちがこのラザロに目を留めることはなかった。気づいてはいても、手を差し伸べることはしなかったのである。

 「さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」(22〜23節)死後、二人の立場は全く逆転していたのである。「ラザロ」という名前には、「神が助け」という意味があった。彼は生前、どんなに貧しくても神を仰ぐ心を失うことはなかったのに違いなかった。それで死後、御使いたちによって、「アブラハムのふところ」、すなわち「天国」に入れられたのであった。他方、金持ちの葬式は盛大になされたことに違いない。けれども、彼は死後、「ハデス」(黄泉/陰府)の苦しみの中にいた。二人のいる所が全く逆転していた。

2、金持ちが「ハデス」で苦しんでいるのに対して、ラザロは「アブラハムのふところ」で、永遠の安息に入れられている。そこで金持ちは、少しでも苦しみが和らぐように、「ラザロをよこしてください」(24節)と願った。彼は神の元で憩うラザロを見つけた時、生前のことを悔いたのだろうか。それとも、ただ苦しみが和らぐことだけを願ったのであろうか。神の答えは厳しいものであった。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。・・・」(25〜26節)これは、生前の生き方で決まるのであって、死後の変更を阻む「大きな淵」、隔てのあることを知りなさいと。

 金持ちは、視点を変え、ラザロを父の家に送って、五人の兄弟たちに、「こんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と願った。彼はこのままでは、兄弟たちも同じ苦しみ遭うのがよく分った。それで、兄弟たちのためを思って願ったのだろうか。それとも、自分の非をこれ以上思い知らされたくなかったからであろうか。彼は「だれかが死んだ者の中から行ってやったら」と願って、ラザロを・・・と言った。しかし、聖書に聞くことがなければ、彼自身が聖書を知っていながら、それに耳を傾けなかったように、「たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と突き放される。彼らには「モーセと預言者」があること、聖書が与えれていることは、神の教えがいつも身近に置かれていることであった。その教えに耳を傾けること、それは神に心を向けることに他ならないからである。(27〜31節)

3、この金持ちとラザロのたとえ話しは、正しく神が人の心をご存じであることを示すものである。この世では、確かに人の見る目があり、人の評価が着いてまわる。ところが来るべき世での評価は、それとは全く異なり、とてつもない逆転が起る。それは余りに無情とさえ、人は思うかもしれず、幾らかなりの温情があってもよいのでは、と思いたい程である。けれども、この世と来るべき世の逆転は、もう決して覆ることのないものである。主イエスは、この厳しさ、このことの重さを悟るように語っておられた。「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」心が神に向いているのか、向いていないのか、神は必ず知っておられると。

 心が神に向くか否か、それは聖書に聞くかどうかによっている。聖書の教えを要約するなら、神を愛し、隣人を愛することに、そして神に仕え、人に仕えることに行き着く。金持ちが、もし少しでも聖書に耳を傾けていたなら、門前に寝ていたラザロに対し、何かしらの心遣いがあったに違いなかった。彼はラザロを見てはいても、決して手を差し伸べなかったという点で、聖書の教えに背を向けていた。彼の兄弟たちとて、ラザロが死人の中から生き返って遣わされても、彼の言うことを聞くとは考えられなかった。兄と同様、この世での成功ばかりを追い求め、聖書に聞こうとはしないからである。聖書に聞こうとする態度、その教えに耳を傾け、神に従おうとする心、その心を神は見ておられるのである。与えられた豊かな富を、目の前にいる貧しいラザロのために使うかどうか、それは心が神に向くかどうかによっていた。私たちはどうか、私たちの心も問われている。

<結び> 貧しさの中でじっと耐えたラザロは、死後、御使いたちによって「アブラハムのふところ」に移された。彼は神によって、永遠の安息に憩うことを許されたのである。「今ここで彼は慰められ」と、最高の安らぎを与えられていた。そしてイエスは、たとえを通して、全ての人に、聖書に耳を傾けなさい、聖書に聞きなさい、と語り掛けておられた。神が生きておられ、全てのことを見ておられることを、決して忘れないように。全ての人が神の前に生きていることを心に刻みなさいと。

 転入会式、また洗礼式の度、その恵みに与る当人だけでなく、この場にいる全ての者が同じように、自分を省みる機会となることは、大きな感謝である。主イエス・キリストを救い主と信じる者には、天の御国で、「今ここで彼は慰められ」との大きな慰めが約束されている。それはこの地上にあって、神を恐れて生きることによって、来るべき世で「今ここで彼は慰められ」との言葉を聞くことにつながることである。今、この地上にあっても、既に真の慰めをいただいている幸いを忘れないよう、そして、このクリスマスの季節に、確かな喜びと感謝の日々を歩ませていただけるよう祈りたい!
(※伝道者の書12:13〜14)