15章1節以下、主イエスはパリサイ人や律法学者たちに向かって、彼らの思いを正すように語っておられた。そして16章1節以下は、弟子たちに向かって、神に仕える管理人の心構えを迫っておられた。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と。(13節)その言葉は明解であり、また余りにも明解過ぎて、この地上の生活を考える時、多くの人が神に仕えるのを躊躇うことになる、そのような教えであった。その場にいたパリサイ人たちは、早速のように反応していた。「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(14節)
1、「そんなこと言ったって、無理に決まっている。」絶対に富に仕えることはない、富の言いなりにはならない、と強く心に決めたとしても、現実の生活の必要は、日々、全ての人に圧し掛かってくる。今日でも、「聖書の教えは素晴らしい。でも・・・」と、その教えに、本気で従うかは別であるかのように、距離を置こうとすることがある。他の人がそのような態度を見せるのを、私たちがよく気づくだけでなく、私たち自身が、主イエスの教えに対して、距離を保って置きたい・・・と、躊躇うことがあるのも事実である。パリサイ人たちは、「金の好きなパリサイ人たち」と見抜かれたように、イエスの教えには、そのままではとても聞き従えない、とあざ笑っていたのである。
イエスは、鋭く語られた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。」(15節)当時、多くの人々が富の祝福を神からのものと取り違え、施しなどの良い行いをすることによって義とされると、結局は人前に見せびらかすことをしていたのである。パリサイ人や律法学者たちの中には、自分勝手に、良い行いの報いとして富を得たと錯覚して、それで満足する者がいた。しかし主イエスは、「神は、あなたがたの心をご存じです」と言われた。人前で施しをしつつ、その心の内は貪りに満ちていることを、神は必ず見抜いておられる、と語られたのである。すなわち、聖書は一貫して、神は人の心を知っておられると教えていることを、決して忘れてはならない・・・と。どんなに人が誉めても、そこに惹かれてはならず、心をご存じの神の前に、申し開きのできる歩み、生き方こそが尊いものなのである。
2、神は確かに、何が正しく、何が正しくないかを、律法によって示しておられた。その律法を守ろうとする余り、多くの間違いを犯した旧約の時代が終り、ヨハネの到来とイエスご自身が来られたことにより、「神の国の福音」が宣べ伝えられる、新しい時代になっていた。だれもが神のもとに近づくことが許され、熱心に救いを求めることが尊いこととなった。けれども、だからと言って、律法が求める正しさの基準、神が求めておられる義は、いささかも揺るがされてはいない、と主は言われたのである。(16〜17節)これは、律法の時代は終わった、今は福音の時代であると主張する、律法を古いものとして退ける考え方とは違うものである。福音の時代になっても、律法の指し示す神の正しさの要求は、いささかも変わってはいない。そのことを知るのに、神は人の心をご存じであると知ること、それが肝心となるのである。
神が私たち人間の心の内をご存じであることを、私たちは日頃、余り頓着せずに過ごしている。しかし、聖書は繰り返し語っている。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5) 「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべ見るが、主は心を見る。」(サムエル第一16:7)「私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています・・・」(歴代誌第一29:17) 「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。」(ローマ 8:27 ※使徒15:8)人の目にどれだけ隠れていても、神の目には全て明らかである。その神の前に正しいとされること、それが何よりも尊いことである。
3、律法を与えられていながら、これを空しくしてしまったのは、何とか守れるようにと、次々に人の教えを加えたからであった。十戒の一つ一つを表面的に守って、その本質からそれて行った。主は、「姦淫してはならない」との戒めと離婚の関係を例に挙げられた。離縁状を用意すれば離縁は許されるとばかりに思われていたのを、もっと厳密に、神は初めから結婚を神聖なものと定められたこと、それゆえに徒な離縁は姦淫の罪を犯すことと、厳しく語られたのである。(18節、※マタイ5:31〜32、19:3〜9、申命記24:1)行いに表れる罪には敏感であっても、心の内に潜む罪には、つい鈍感になるのが私たち人間である。その内にある罪を認めることなく、自分を正しいと人前で誇ること、その愚かさ、醜さを知るように、主イエスは語っておられたのである。
パリサイ人たちは、果たしてどのように主イエスの教えを聞いたのであろうか。どんなに指摘されても、この世にある限り、やはり実績が問われるではないか。富を蓄え、具体的な働きが実を結んでこそ、人々に認められるはずである・・・と考えていたかもしれない。どんなに小さくても、また隠れていても、神の前に忠実に生きる、その忠実で真実な心を、神が良しとして下さることを生涯変ることなく追い求めるには、どうしたらよいのだろうか。心をご存じの神の前に、心を低くすること、これ以外に道はない。表に現れることが全てと考え易い私たちである。けれども、神は表に現れない心の内をご覧になるのである。「殺してはならない」「欲しがってはならない」など、どの戒めも心の内が問われているとすると、誰一人、自分を誇ることなどできない。その罪を認め、十字架の主キリストを仰ぐこと、そこにのみ救いの道がある。心を問う神の前に、人は十字架を仰がねばならないのである。
(※マタイ5:20〜6:18)
<結び> 目に見える所によってではなく、目に見えない所によって神に評価していただくこと、そのことの大切さを、私たちはしっかりと心に刻みたい。神が喜んで下さるのは、私たちが何かを成し、その業がこの地に残ることではない。(※それでも実際問題として、私たち人間にとって、地上の教会も何を成し、何を残すか、案外大きな課題のようである。)何を残すかではなく、託されたことなら、その務めを忠実に果すことによって、神ご自身に仕え続けること、それが求められている。教会の歩みしかり、また一人一人の歩みしかりである。心をご存じの方に心を知られていることを、恐ろしいと思うのか、それとも嬉しく感謝なことと思うのか、その違いによって、私たちの地上の日々は、全く違って来る。神に知られていることにより、感謝と喜びが、そして安心があることを経験させていただこうではないか。
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