主イエスは、パリサイ人や律法学者たちに三つのたとえを話された。失われた者が見出され、その存在が回復されるなら、そこには大きな喜びがあると明言された。取税人や罪人たちとの交わりを喜んでおられたからである。そして、その教えを一緒に聞いていた弟子たちにも、「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された」と話し始められた。弟子たちは、「しもべ」として仕える者である。その弟子たちは、「管理人」として大きな責任も任される者であって、彼らこそ、確かな歩みをして欲しい、と心から願っておられたのである。(1〜7節)
1、このたとえに、弟子たちへの警告を込められた。弟子たちは、財産を「放蕩して湯水のように」浪費し、「使い果たした」弟息子の姿も、また弟の帰還を、父と一緒に喜べなかった兄息子の姿も、自分とは無縁と感じていたかもしれない。主イエスと共に過ごす幸いがあったからである。弟子として仕える喜びがあり、また安心もあったに違いない。そのため、この地上にある日々において、心して歩むことがなければ、任された務めを疎かにする「乱費」が忍び込むのに気づかず、大きな過ちを犯すかもしれなかった。それでこのたとえを語り、警告を発しておられたのである。管理人には「忠実」が求められている、その「忠実」を身に着けるにはどうするか、よくよく考えなさいと。
金持ちの主人は、管理人を信頼して財産を任せていた。この管理人は、恐らく全てを任され、忠実に果しさえすれば、全てを自由にできる程に任されていた。ところが、「乱費している」という訴えが主人の耳に届いたので、主人は「もう任せておくことはできない」と、会計報告を求め、解雇通告をしたのである。それは報告を見てからの解雇ではなく、解雇の決定が覆ることはなかった。それでこの管理人は、巧妙な手を打ったのである。彼は債務者の一人一人を呼んで、債務額を減じて恩を売った。そうしておけば、仕事を失った後で、きっと道が開けるに違いないと。(※油百バテ:3700リットル、小麦百コル:37000リットル、減じた額はいずれも約500デナリとなる。) 彼は自分の行く末を悟った時、有りっ丈の知恵を搾り出し、自分の身を守ろうとした。それは悪知恵とも言うべきものであったが、そこには破滅を免れるための必死さと真剣さがあった。そして、このたとえはその結末には触れずに終わるのである。
2、この管理人を、果たして善く評価することができるのだろうか。ところが、「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」と語られる。(8節)この節を、たとえの中に含めると、主人が不正な管理人を誉めることになり、この教えを理解するのがとても難しくなる。しかし、前半の言葉を主イエスの指摘と考えると、後半の「ほめた」のは、破滅を悟って、真剣に取り組んだ、その「抜けめなくやった」ことについてとなる。ことの善し悪しでなく、破滅を回避するための必死さを、主ご自身が「抜けめのない」利口さ、あるいは「思慮深さ」と評価されたことになる。この世の子らの、この世の事柄に対しての真剣さが飛び抜けていることを指摘し、他方、光の子らが来るべき世のことについて、時に余りにも無頓着となっていることを憂えておられたことになる。
そして9節が続く。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」ここで「不正の富」とは、先のたとえのように、不正な富の運用をしてでも、という意味ではない。この世での富、地上における財産などの所有物をどのように使うのか、自分のためにだけ使うのか、それとも人のために喜んで使うのか、それを問うのである。 「自分のために友をつくりなさい」は、自分を迎えてくれる友というより、真に頼るべきものを得るようにとの勧めである。永遠の住まいに迎えてくれる「彼ら」とは、天の父を指している。この地上で生きる限り、どれだけ思慮深く、来るべき世に備えて賢く生きるのか、そのために真剣になることを、弟子たちは期待されていたのである。
3、こうして主は、弟子たちに、この世で「管理人」として生きる覚悟を明確にするように、これまで以上に自覚して生きるように、と迫っておられた。あなたがたに、「まことの富」を任せたいと。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったなら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」(10〜11節)「不正の富」と「まことの富」を対比して、ここでは、この地上の富と永遠の続くまことの富の、どちらにも真剣に向き合っていないなら、その人に「まことの富」を任せることはできないと言われた。(12節)彼らが「まことの富」を任せられるためには、今の世にあって、先ず、託された小さな務めをも喜んで果すこと、それが大事と。
そして「管理人」である弟子たちに要求される究極は、「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。・・・」との、大原則であった。(13節)誰も異論を挟む余地のない位に、明確な教えである。けれども、いざ自分を当てはめて考えると、その教えを適用されるのは逃れたいと、そのように感じることはないだろうか。事実、日常の生活において、案外二つのこと、いや三つのことを追っていることがある。(※現代では、定職の他にアルバイトを掛け持ちする人もいるよう・・・)神を主人とする弟子たちの生き方において、中途半端は命取りとなる、全き心で神を愛し、一心に神に仕えよと、主は弟子たちに語っておられたのである。この世にあって、頼りにならない富に、つい心を奪われてしまうのは、思いの他容易いことだからである。
<結び> 主イエスは、弟子たちに、本当の意味で「まことの富」を任される人になるように、そのために、自分の心を点検し、喜んで神に仕える人になるようにと勧めていた。パイサイ人や律法学者たちも、その教えを聞いていた。この世で富み栄えることを求めていた彼らにも、生き方を省みるよう迫ってもおられた。このままで過ぎるなら、必ず、全ての人に裁きの時が迫り、その時になって慌てても、どうにもならない時の来ることを暗示しておられた。不正な管理人は、確かに悪しき者であったが、破滅を回避する努力を惜しまなかった。その抜けめのない賢さは、光の子である弟子たちも習うべきものであり、全ての人が心すべきことである、というのが主イエスの教えであった。
私たちは、「まことの富を任される人」としての自覚を新たにされたい。今、生かされている日々を尊び、天の御国に入る日を望み見て生きるにはどうするのか。そのためには、キリストに従う日々の生活において、もっと真実に善を追い求めること、そしてキリストの香りを放つこと、愛の業に向かうことなどに心を傾けることができるよう祈りたい。何をするにも、神の栄光が現されるようにと祈りつつ。(コリント第一10:31〜33)
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