礼拝説教要旨(2010.11.07)
失われた者の回復
(ルカ 15:11〜32)

 いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く羊飼い、そして、なくした一枚の銀貨を見つけるまで念入りに捜す女の人、どちらの人も、見つけたら大喜びすると語られた主イエスは、次に、その喜びがもっと鮮明になる教えを語られた。放蕩息子が登場するたとえである。イエスのもとに取税人や罪人たちが親しげに近寄るのを見て、それを快く思わなかったパリサイ人や律法学者たちに向かって、主は、あなたたちこそよくよく考えて見なさい・・・と迫っておられた。そして聖書を読む私たちも、自らを省みるように、また父なる神の前に自分はどのような存在かを知りなさい、と迫られるのである。

1、「ある人に息子がふたりあった。弟が父に・・・」と語られるこのたとえは、よくよく知られ、何度も何度も聞かされている。弟息子は、父から財産の分け前を貰うと、たちまちのうちに家を出、遠い国に旅立って行った。彼は父の財産の三分の一を受けたが、父の家に居ては不自由と考えたのであろう。思う存分自由にしたいと、「遠い国」を夢見たのである。けれどもその夢はたちまちのうちに崩れ、自分ではどうにもならなくなるのは、時間の問題であった。(11〜14節)財産を使い果たした後、飢饉が追い討ちかけるように襲い、食べるのに困り果てた時、ようやくある人のもとに身を寄せたものの、豚の世話をさせられることになった。彼は貧困と悲惨の極みに追い詰められた。ユダヤ人は決して豚を飼うことはなかったからである。(15〜16節)

 追い詰められ、どん底に落ちて初めて、「我に返ったとき」、彼は父の家を思い出した。そして、「立って、父のところに行って、こう言おう」と、悔い改めを口にしようとした。(17〜19節)自分が今何故ここにいるのか、何故、こんなに苦しんでいるのか、それは父の家を離れたから・・・と気づき始めていた。私は罪を犯しました、もうあなたの子と呼ばれる資格はありません・・・、そのように言おうと心が定まった時、彼は立ち上がり、父の家に向かった。その息子の姿を遠くから見つけた父は、「かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20〜21節)息子が帰るのを、父は、来る日も来る日も待っていたかのようである。父が走り寄り、抱き寄せして迎えている。そして、息子が懸命に悔い改めの言葉を言うのを遮るように、息子の帰還を僕たちに告げ、歓迎の祝宴を始めさせた。父にとっては息子が帰って来たこと、それが何ものにも優る喜びだったからである。(22〜24節)

2、そこに帰って来た兄息子は、その祝宴を喜べず、父への不平不満を言い募ることになった。彼は父の家にいて、永年に渡り忠実に仕えていたが、それは表向きだけであったこと、また、戒めを破ることはなかったが、それも心がこもっていなかったことなどが明らかになってしまった。弟に対しては、もう全く縁を切ったがごとく切り捨てていた。(25〜30節※「私の弟」とは言わず「あなたの息子」と言う。)兄息子のこうした屈折した心の思いは、これまで表に出ることなく過ぎていた。けれども、自分勝手に家を出て行った弟が、急に帰って来たことによって一気に爆発した。それまで溜まりに溜まっていたかのようである。その気持ちを彼は自分では吐き出せなかった。「兄はおこって、家に入ろうともしなかった。」

 彼が心の内を吐き出せたのは、「それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」からであった。兄息子が言いたいだけ言い表わした後、父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』(31〜32節)死んでいたのが生き返ること、いなくなっていたのが見つかること、この喜びは何ものにも代え難く、この喜びを一緒に喜んでくれ、一緒に喜ぶのは当り前ではないか、と兄息子に迫ったのである。父にとっては、いなくなっていた息子の帰還はこの上もない喜びである。それは死んでいた者が生き返ること、失われていた者が見出されることである。理屈抜きの喜びであると。

3、3節以下の三つのたとえに共通するのは、失せたものが見出される時の喜びである。いなくなった一匹の羊、なくした一枚の銀貨、そして死んでいた弟息子、いずれもが元の所に戻った時、大きな喜びがそこにあった。一緒に喜んでくださいとの呼びかけがなされていた。但し、一緒に喜んだかどうかは触れられていない。最後のたとえでは、一緒に喜べなかった兄息子の姿と、その言い分に触れられている。主イエスは、明らかにパリサイ人や律法学者たちに向けて問い掛けておられた。彼らは取税人や罪人たちのことを見下していた。彼らがイエスに近づき、イエスと共に食事をし、その教えを喜んでいるのを快く思わなかった。その姿は丁度、弟の帰還を喜べなかった兄息子そのものである。主イエスは彼らに、よくよく考えてみよと問うておられたのである。

 確かに、弟息子の悔い改め、「我に返った」事実は大切なことであった。けれども、父はその悔い改めの言葉を、ほとんど聞かなかったかのように、また無視するかのように、弟息子を迎え入れている。「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と、懸命に言おうとしているのを振り払うように、大切な子として受け入れていた。悔い改めが本物かどうかを確かめることはしなかった。兄は、いくらなんでも、それ位はして欲しいと思ったのかもしれない。でも父はその兄息子に向かって、「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と語って、一緒に喜んでくれと諭していた。父の愛は底なしの愛と言うべきものなのである。


<結び> 一匹の羊、一枚の銀貨、そして放蕩息子とその兄、いずれのたとえも、失われたものが見出されることの喜びが、どれだけ大きいかを告げている。そして、失われていた者が神の前に立ち返るなら、神がそのことをどれ程大喜びされるのかを教えている。父の愛は底なしであり、人の目には不思議であると。羊も銀貨も、見出されるのに、自分では何も成し得なかった。弟は「我に返る」悔い改めを示し、自分で立ち上がって家を目指した。けれども、その彼を遠くから見つけ、かわいそうに思い、走り寄ったのは父であった。弟息子に、もし完璧な悔い改めが要求されたとしたなら、どうなっていただろうか。失われた者が回復されるには、父の側に大きな愛があり、その愛に包まれることによるという不思議、その不思議がそこにある。神は失われた者の回復をそのように大喜びして下さるのである。(※イザヤ55:6〜9)

 私たちは、自分が失われていた者であり、不思議にも神の元に立ち返ることを許された幸いな者であることを感謝したい。と同時に、失われた者が回復されることを神と共に大喜びする、その幸いを味わい続ける者とされたい。ゆめゆめ兄息子のような上辺だけの信仰に陥ることなく、愛に富む父なる神がおられることを信じ、この神を喜び、この方に従う歩みを、生涯変ることなく導かれるように祈りたいものである。