礼拝説教要旨(2010.10.31)=宗教改革記念日礼拝=
ただ、信仰によってだけ義とされる
(ローマ 3:19〜30)説教者:高橋 善樹
 493年前の今日、1517年10月31日、ヴィッテンベルク教会の修道士、聖書教師マルチン・ルターは、やむにやまれぬ思いを「95の提題」にまとめヴィッテンベルク教会の扉に張り出します。宗教改革の始まりです。私たちは今日、この日を覚え、宗教改革が重んじた3つのことについて、改めて学び、「改革派」の流れをくむ、「長老派」の信仰を受け継ぐ者としてこの改革をどう覚え、生きるべきかを教えられてまいりたいと思います。

1、「信仰のみ」
 「信仰のみ」というのは、“イエス様を信じる信仰によってだけ、神様に義と認められる”ということです。「信仰義認」ともいいます。
 ローマ・カトリック教会の信仰は、聖書に拠っているとしつつも、人が善行を積み重ね、人の手によって神に義と認めさせる仕組み(組織)と伝統を作り上げたのです。改革者たちは「信仰のみ」を主張し抗議(プロテスト)します。
 「信仰のみ」は、「イエス・キリストのみ」「福音のみ」「恵みのみ」とも言われます。「イエス・キリストのみ」とは、義なる神様のひとり子のイエス様だけをそのままに信じること、イエス様を受け入れこと、さらにこのこと以外に、人が義とされる道は全くない、とすることです。イエス様を心に信じ、口で告白すれば、それだけで人は義とされ、救われるのです。(ローマ10:9,10)。これが、神様からの良いお知らせ、喜ばしいおとずれです。「福音のみ」です。
 イエス様である良いお知らせ、喜ばしいおとずれを備え、贈ってくださったのは、ただ、神様のあわれみと慈しみによること、「恵みのみ」です。人には神様のあわれみと慈しみを受けるにふさわしいものがあるのでしょうか? 神様は、人にイエス様を心に信じ、口で告白する以外に、恵みの見返りを求められたでしょうか? 全くありません。価なしに、一方的な「恵みのみ」です。(ローマ3:24)
 ところで、イエス様を信じることにおいて、イエス様と信じる者との間には何が起こるのかについて、宗教改革者たちは、注意深く説明をしています。ルターは、神の義であるキリストの義が、われわれに帰せられ、われわれの罪がキリストに負われるという、“喜ばしい交換”が起こっているのだとしています(「キリスト者の自由」第12 1520年)。また、カルヴァンは、こう言います。「われわれは、義なるイエス・キリストを信じることによって、義を獲得する。われわれの義認の根拠は、キリストにある。われわれは、キリストを着て、キリストに植えつけられて、キリストと義を共有していることを誇るのである。」(「キリスト教綱要」第3巻1936年)。
 “信じるとはどういうことか、信仰とは何か”について、宗教改革は、「イエス・キリストと結びつくこと」を教理とします。義なる主イエスと結びついて(=信じて)神に義と認められる以外には、義への道はない、とします。
 改めて、「信仰のみ」を覚え、“喜ばしい交換”“イエス様と義を共有していることを誇に思い”、喜びたいと思います。

2、「聖書のみ」
 中世カトリック教会も聖書の権威を認めています。しかし、実際にはそれ以上に教皇や教会会議の決定に権威を認め、善い行いの効力、免罪符、聖母マリヤと聖人の執り成し、多種にわたる秘跡(聖礼典)といった教会の伝承を重んじています。
 改革者たちは、神のことばである聖書がすべての権威の源泉であることを主張して、人が建てた権威にプロテスト(抗議)します。たとえば、ローマ・カトリック教会の聖礼典は、7つ(洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、結婚)ありますが、聖書にあるのは、洗礼と聖餐だけであると抗議します。
 一方、聖書内容の解釈のあり方についてもローマ・カトリックは、教皇の見解や、教会による伝統的解釈の権威を優先します。改革者たちは、「聖書のみ」を掲げて“聖書によって聖書を解釈し、理解すべきこと”を主張します。
 今、私たち福音派の教会が用いている「新改訳聖書」について、その「脚注」の多さにお気づきでしょうか。この豊かさは、“聖書によって聖書を解釈する”宗教改革の信仰を今日に受け継いでいます。「脚注」を縦横に用いて神様のことばを正確に、みこころにそって解釈し、理解し受け取る者でありたいと願わされます。
 次に「聖書のみ」の聖書は、具体的にどの聖書を指しているでしょうか?旧約はヘブル語、新約はギリシャ語の原典を指します。いろいろな国の言葉に翻訳された聖書は、訳された時点での最善ではありますが、限界を負ったものです。たとえば、中世のカトリック教会が用いた聖書は、ヴルガタ版といってラテン語で訳されたものですが、ルネッサンス運動(ギリシャ・ローマ文化への復興)において新約聖書が再びギリシャ語の原典で精緻に読まれる中でヴルガタ版は原典通りでなく、いくつかの欠陥があることが検証されます。先の7つの聖礼典の誤りもそのひとつです。ですから、聖書は今でも翻訳が続けられ「聖書のみ」は今日にも受け継がれています。
 このことを覚えつつ私たちは、いろいろの機会にひとつの言葉でもよいのですから、聖書を原典から理解する小さな努力を積み重ねていきたいと願わされます。

3、「神の前での平等」(全信徒祭司性、万人祭司性)
 改革者たちは、キリスト者には、聖職者と一般信徒との区別はない、神の前では、平等であると主張します。一般信徒も祭司と同じ使命を覚え、世の只中で、隣人に聖書(神のことば)を伝え、生活をもって神に仕え(=礼拝をささげ)、隣人を神に執り成すことを強く勧めます。これが全信徒祭司性、万人祭司性の基本的な考え方です。
 このためにルターは、聖書をドイツ語に翻訳し、聖書をラテン語から解放し、みことばをドイツの民と分かち合いました。また、讃美歌を作り聖職者だけがラテン語でグレゴリオ聖歌だけを歌うことから礼拝者みんなが讃美できるようにしました。  
 フランス、スイスで改革を進めたカルヴァンもまた、多くの聖書注解書を書き、また、「キリスト教綱要」をもって改革派の信仰とは何かを明らかにして万人祭司性を支えました。神の前での平等を唱えた改革者たちの祈りと努力は今日の私たちの教会に生きています。感謝しつつ覚え、大切にしたいと思います。

 改革者たちは、命がけで改革を勝ち取りました。耐え忍び、多くの殉教者を天に送りながらまた、改革に反対する勢力を処罰する痛みを負いながら、闘い取ったのです。  
私たちは、この改革の歴史を覚え、その成果を継承するとともに、日々目覚めて信仰と教会の今日に、改革すべき課題を見出したいのです。その課題を生ける神との交わりにおいて、聖書(=まことの神のいのちのことば)の中に聴く者でありたいと願わされます。
 最後に、今日の「招きのことば」、ローマ書6:4をもう一度読みます。   
                                  以上。