「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」(詩篇119:176)この言葉を思い返すと、必ず思い至る一つが今朝の聖書個所であろう。また、主イエスが語られた言葉、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ11:10)に違いない。迷い出たため、滅びに向かう羊のようになった者が、「捜し求めてください」と必死に叫び求めて祈るならば、必ず聞き止めて下さる方がおられるのである。主イエスは、そのことを人々に知らせておられた。神を求めることの大事さとともに、神に見出される幸いのあることを。そして、失われた人を捜して救うためにこそ、わたしは来たと。
1、ルカ福音書は、そのテーマが顕著に描かれている。取税人ザアカイのことを思い出して分ること(19:1以下)であり、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(5:31〜32)との言葉に明らかである。そして15章1節以下の三つのたとえは、一つのきっかけがあって語られ、失われた人が見出される幸いを明らかにしている。ことの発端は、「取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」、丁度その時、「パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』」と文句を言ったことにあった。(1〜2節)
イエスの話を聞こうとして、イエスに近寄ったのは「取税人、罪人たち」であった。それに対して、つぶやいたのが「パリサイ人、律法学者たち」で、主イエスの周りで、いつもそのような光景があったと暗示されている。特定の町でこんなことがありました・・・ではなく、あちらこちらで、これと同じことが繰り返されていたと。実際に新約聖書に登場するパリサイ人と律法学者は、何故そんなに心が固いのか、と不思議に思う位、取税人、罪人たちが主イエスに近づき、心を開いている記事が多く記されている。パリサイ人たちは、彼らが考える「罪人たち」と食事を共にするイエスのことが、「考えられない、許せない」のであった。常識的な社会生活を営む自分たちを規準にしていたので、「罪人」とされる人々と、「食事までいっしょにする」とは、とんでもないと騒ぎ立てた。主がいつもそのようにされたことに不平を言っていたのである。
2、そこで語られたのが、百匹の羊を持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたらどうするか、九十九匹を野原に残して、「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」というたとえであった。見つけたら、大喜びでその羊をかついで帰り、友だちや近所の人を集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うでしょう、そう言うに違いないと問い掛けておられた。(3〜6節)いなくなった一匹は、そのままでは滅びる一匹となる。それ故に見つけるまで捜し歩くのが持ち主の務めであった。見つけたら、引いて連れ帰るのでなく、かついで帰るのであって、羊飼いはそこまでして羊を守っていた。だからこそ、近所の人たちを呼び集め、「いしょに喜んでください」と喜びに溢れるのである。
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(7節)一人の罪人が悔い改めることの喜びは、ただ大きいだけでなく、もっと大きな喜びが「天にある」と。失われた人が捜し出され、見出され、居るべき所に戻ること、それは天の神にとって大きな喜びなのである。それに続けて、銀貨十枚を持っていた女の人が、その一枚をなくしたなら、「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」と語られた。(8節)銀貨の一枚は大切な一枚なので、あかりをつけ、念入りに捜すでしょうと。「見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。」(9節)周りの人といっしょに喜ぶ、大きな喜びがそこにもあった。
3、そしてこのたとえも、「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」と結ばれる。(10節)一匹の羊も一枚の銀貨も、懸命に、そして丁寧に捜すこと、そして見つかったなら大喜びすること、ただ自分一人で喜ぶのでなく、友だちや近所の人たちを呼び集めて、「いっしょに喜んでください」と大喜びしている。それに加えて、一人の罪人が悔い改めるなら、天において大きな喜びが溢れることを告げている。失われた人が神のもとに立ち返るなら、天の父はどんなにか大喜びなさることを、このたとえは語っている。主イエスは、神の民の集まりに人々が集うことの尊さを、また、その人がどんな人であっても、神がその人を捜し出そうとしておられることを、そして、その人が神に立ち返るなら、神はこの上もなく喜んで下さることを明言されたのである。
取税人や罪人たちは、当時の社会で蔑まれていた。確かに不正を働く者がいて、ならず者のような悪党もいたに違いなかった。ところが、自分を正しい者と自負するパリサイ人や律法学者たちに比べ、彼らは主イエスに近づき、その教えを心を開いて聞いていた。主イエスが人を分け隔てなく受け入れて下さることを喜び、自分たちの心の内を見透かされることをよしとしていた。自分が道を迷った羊であることを認め、捜し出され、救い出されることを喜ぶことができた。だから、また「イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」のである。けれども、自分を迷った羊とは決して思わない人々は、イエスの話を聞こうとせず、また近寄りもしなかった。近寄った時、それは文句を言うため、イエスを責めるためであった。私たちは、聖書を開いてその教えを聞く時、あなたはどちらの人なのか、と問われているのである。
<結び> 一匹の羊も、一枚の銀貨も、元々はその飼い主のものであり、持ち主のものである。いなくなった時、なくした時、もし、私たちがそれぞれ、飼い主であり、また持ち主であったら、どのようにするだろうか。一匹なら・・・、一枚なら・・・と、すぐ諦めてしまいそうな自分がいる。けれども、このたとえが明らかにしているのは、天の神はご自分のものを決して見捨てず、諦めることなく、見つけるまで捜される方であるということ、そして、見つけたら連れ帰り、大喜びされることである。周りの人を集め、「いっしょに喜んでください」と言われる、そのような方なのである。ここに教会の交わりのひな型があると思われる。一人一人が神に愛されている尊い存在である。愛されているからこそ、神に見出され、神の元に立ち返った者たちである。一人が立ち返る毎に、天で大きな喜びが湧き起こり、その喜びを地上で共に喜ぶ、そんな喜びの交わり、それが教会の交わりなのである。私たちが神によって捜し出され、神に立ち返る時、神が大喜びされる、そんな救いに私たちは招き入れられている。私たちもその喜びに与り続けたいものである。
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