「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」(1〜2節)「みことば」に聞き従う人の幸いを高らかに歌い始めたこの119篇が、第22段落で締めくくられる。全篇を通じて、神を信じ、神に従って歩んだ人の、様々な経験が歌い込まれていた。生ける真の神、主を恐れ、主の助けと導きを待ち望み、主の「みことば」に支えられ、養われることを喜びとする、この詩篇記者の姿が浮かび上がってくる。この人の主に任せる生き方、その信仰から、私たちは多くのことを学ばされた。そして、最後の段落はまた、とても意味深い終わり方である。
1、第21段落には、一見、自分を誇るような言葉が並んでいた。けれども、それらは誇っているようでいて、実際は、神、主が生かして下さる自分を感謝する言葉であった。また祈りを込めた言葉であり、「みことば」を喜ぶ日々の歩みを、喜び感謝するからこその思いであった。「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。・・・あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。・・・私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。私はあなたの戒めと、さとしを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。」(162・・・164・・・168-169節)主によって生かされているので、「みことば」を喜ぶ日々があると、心から感謝していた。そして、全篇を祈りと賛美をもって閉じようとした。
「私の叫びが御前に近づきますように。主よ。みことばのとおりに、私に悟りを与えてください。私の切なる願いが御前に届きますように。みことばのとおりに私を救い出してください。」(169〜170節)「叫び」も「切なる願い」も、どちらも神の助けを願う、切実な祈りのことである。これは悲痛な叫び声であった。それに続くのが賛美の歌である。「私のくちびるに賛美があふれるようにしてください。あなたが私にみおきてを教えてくださるから。私の舌はあなたのみことばを歌うようにしていください。あなたの仰せはことごとく正しいから。」(171〜172節)必死の祈りと必死の賛美が続く。ただ祈り、賛美するのでなく、祈りのための祈りと、賛美のための祈りをささげていた。
2、「あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえは私の喜びです。」(173〜174節)「私を助けてください」との祈りであるが、「あなたの御手が私の助けとなりますように」、また「あなたの救いを慕っています」と祈ることによって、主の手が差し伸べられるのを待っている。自分の時ではなく、神の時を待っていますと、慎みを示している。冒頭でも「悟りを与えてください」と願い、次に「救い出してくだい」と祈り、切実な求めを訴えつつ、いづれも「みことばのとおりに」と祈って、祈りに答えて下さる主を信じ、主の導きに身を委ね切ろうとする、確かな信頼の心を表していた。
「私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。」(175節)主によって生かされている私が、あなたを賛美しますように、そして、あなたの「さばき」、すなわち「みことば」が私の助けとなりますようにと祈っている。この段落の祈りの全てに、ただ「・・・してください」ではなく、「私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように」と、願い方に特徴が見られる。「私の叫びが御前に届きますように。」「私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。」「あなたの御手が、私の助けとなりますように。」それらは、自分の弱さや足りなさを自覚しつつ神を仰でいたこと、神の助けなしには一歩たりとも前には進めない、そんな自分を悟っていたことを示している。神なしには生きることのできない自分を、心の底から悟って、この詩篇を締めくくろうとした。
3、「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」(176節)第一段落の明るく力強い調子に比べて、最後に、迷い出た羊が、滅びを免れない危機に瀕している様に自分を喩えている。それは一体どんな心境なのかと驚くばかりである。神の御手の中にある者は、恐れなく進むことができる。それでも尚、自分の内にある思いや生まれながらの性質は、油断すると道をはずれ、この世の惑わしに心を奪われる愚かさがあるからであろう。迷い出た羊は、そのままでは滅びる羊であると自覚した。羊は弱く、道に迷う動物である。外的に立ち向かう力はなく、逃げ足も速くはない、羊飼いがいないと生きられない、そんな動物と言われている。そのような私です、だから「どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません」と願った。
真の羊飼いである主に見出される羊こそが、幸いな羊である。迷い出た一匹の羊を、見つけるまで捜し歩く羊飼いのたとえを思い出す。(ルカ15:3〜7)そのたとえを話された主イエスが、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・・」と語られた。(ヨハネ10:11・・・)自分を見つめ、「迷い出た羊」、そして「滅びる羊」と自覚することは、決して惨めなことではない。その自己理解が何よりも大事なことである。神なしには救いのない自分を知ること、それは、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人の姿に習うことである。神の前に義と認められるのは、自分を義人だと自任していたパリサイ人ではなく、自分を低くするこの取税人であった。私たちは、果たして自分をどのように理解し、また認識しているのかと問われている。(※ルカ18:9〜14)
<結び> 詩篇119篇は、壮大な人生絵巻のようであり、一人の信仰者の歩みが凝縮されていた。若くして元気はつらつの時があり、困難に直面してうろたえる時があった。神への信頼の全く揺るがない時があり、激しく揺れ動く時もあった。それでも困難を乗り越え、乗り越えして、「みことば」への信頼を固くされて行く、そんな一人の信仰者の姿がそこにあった。この人は、苦難の中にあっても、神を信頼することを学んでいた。そして、最早、困難も苦しみもなくなったからではなく、恐れや悩みは去らずとも神を信頼し、また今も尚、迷い出る羊のように愚かな自分を自覚するので、「(主よ、)どうかあなたのしもべを捜し求めてください」と祈っていた。何があっても、究極の助けは神に委ねる歩みを導かれていたのである。私たちの歩みにおいても、同じ確かな救いと助けが約束されていることを覚えたい。決して自分に頼ることなく、私を捜し求めて下さる神にこそ、望みを、そして真の拠り所を見出すことができるように!
|
|