礼拝説教要旨(2010.10.03)
みことばを喜ぶ日々を
(詩篇 119:161〜168)

 「私を生かしてください」を三度繰り返した第20段落であったが、そこには、私を顧みて下さる主がおられること、その主が決めておられるように私は生かされていることへの、確かな信頼の思いが溢れていた。主によって生かされている私、その確かな私を知ること、悟ることを、案外私たちが忘れているかもしれない。しかし主が私を生かして下さっている幸い、しかも主が決めておられるように、また主の恵みによって生かされている幸いに気づいたこの詩篇の記者は、次の段落で、改めて自分を省み、どんなにか主に守られいるか、支えられているか、感謝の思いを歌おうとした。

1、「私を助けてください」との願いを一言も語ることなく、この段落は全て、自分を見つめた自己認識である。そのために一見、自分を誇るかのようにも受け取れる。「私の心は」「私は」「私は」と続くので、自分の徳を数え上げ、その徳により頼むかのように感じられる。けれども、この119篇全体の流れを理解し、また第20段落との繋がりを覚えると、決して自分を誇らず、神の恵みによって導かれている自分を、感謝をもって見つめていることと理解できる。周りの困難な状況は変らずとも、「・・・しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。」(161節)確かな信仰者の姿がここに見られる。困難が去るなら、迫害から守られるなら神を信じよう・・・ではなく、困難の中でこそ、私は神を信じ続けていること、この不思議を感謝するのである。

 人生で何が一番の喜びか、それは私たちにとっても大切な事柄である。この人の喜びは「みことば」であった。神がおられ、そして自分がいる。その神が私に「ことば」をかけて下さることは、神が私に関わって下さることであり、神と私の人格的な交わりがそこに生じることである。この交わり、また関わりが最高の喜びとなったのである。「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。」(162節)「みことば」に触れる時、飛び上がるばかりの喜びを覚えたのであろう。一度ならず二度、三度・・・いや触れる度に新しい教えに心を照らされたのに違いない。同じ教えも、時に新しく、時に力強く、時に優しく心に迫る。神の「みことば」は最高の「宝」なのである。(※マタイ13:44、45〜46)

2、「みことば」を喜ぶ者となったので、「私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています」(163節)と、この世で何を信じ、何に頼るか、最早迷うことはなくなっていた。「偽り」を憎み切れず、また忌み嫌うことができずに、迷ったりうろたえたり、それが神を忘れた人間の姿である。この世の事柄は時に奇妙で、複雑でさえある。多くの人にとっての問題は、根拠となる規準がないことにある。私たちにとっても同じである。規準があるかないか・・・。この人は「みことば」を喜び、これを愛していた。それ故に迷うことはなかった。憎み退けるべきは「偽り」であり、従うべきは「みことば」と。そして「あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます」(164節)と、神をほめたたえた。主なる神の「義」を、神だけが正しい方であり、正しい裁きをなさるることを「ほめたたえます」と。

 ただ「あなたをほめたたえます」でなく、「私は日に七度」と言う。真夜中に起きて祈ることがあり、また夜明け前に起きて祈ることがあった。朝に夕に、そして真夜中に祈り、恐らく昼、道を急ぐ折も立ち止まって祈ったのであろう。しかし、迫害の迫る中にあっても、「日に七度」、主をほめたたえるとは、折々に、神が成したもう「義のさばき」を見出していたことを歌っている。それは「七度」という回数のことではなく、日に何度となく神の御業に思いを馳せ、その確かな恵みに感謝し、心安らかにされていたことを表している。その心は穏やかで、迷うことはなかった。「あなたのみおしえを愛する者には、豊かな平和があり、つまづきがありません。」(165節)外を吹き荒れる嵐はなお激しくとも、神を仰ぐ者の心には「豊かな平和があり」と歌い、また「つまづきがありません」と言い得る幸い、この幸いに私たちは気づいているだろうか。

3、「私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行っています。私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。」(166〜167節)ここだけを切り離してしまうと、随分と自分を誇っているように聞こえる。しかし、これらの言葉は、主の御手の中にある自分、そして主によって生かされている自分を再認識した上で、最早「救ってください」と叫ぶのではなく、私は信じて「救いを待ち望んでいます」という、神への信頼の言葉となっている。この段落の結びも同様である。「私はあなたの戒めと、さとしを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。」(168節)先に「つまづきがありません」と言った通り、迷うことなく、主に従う自分の姿を見つめているが、それは神の前に全て露である自分を認めるからであった。

 神に従う信仰の歩みには、「みことば」に聞き従い、「戒め」を守り、「さとし」を行うことが求められている。そのため、そこには堅苦しさが付きまとうものと思われ易い。他人事ではなく、私たち自身も「ねばならない」と考え、「励むべきもの」と自分を鼓舞し、奮い立つことがある。ところが、その自分と詩篇の記者を比べると、かなり隔たりがあるように思う。神によって生かされている私であるが、この人と同じようにはとても言えないと。大切なヒントは、「戒め」や「さとし」を守ることについて、「限りなくそれを愛しています」と言うことにある。心からそれに従いたいとの思いをもって、戒めを守り、さとしを行いたいと願うことが大切な視点である。私たちが、胸を張って「待ち望んでいます」「行っています」「守っています」「愛しています」と言えなくても、祈りを込めてそのように言うなら、その祈りを神は聞き入れて下さる。この人もまた、祈り心をもって歌っていたのに違いないからである。

<結び> 「私は大きな獲物を見つけた人のように、あなたのみことばを喜びます。」(162節)これは「みことば」を喜ぶ者の尊い姿である。これに「あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます」(164節)を重ね、「みことば」を喜ぶ日々を生きること、歩ませていただくことを神に祈りたい。神に頼る者を、神ご自身が確かに造り変えて下さること、「みことば」に叶う者としていて下さることを、私たちは信じている。周りにある困難は全く変らず、事態が好転することがなくても、「あなたのみおしえを愛する者には、豊かな平和があり、つまづきがありません」(165節)というのが神の民の幸いである。「みことば」は私たちの心を縛るものではなく、神にあって、心を解き放ってくれるものである。日に何度となく神を喜び、その「みことば」を喜ぶ、そんな日々を歩ませていたきたいものである。