礼拝説教要旨(2010.09.26)
私を生かしてください
(詩篇 119:153〜160)

 第19段落は、神の助けを激しく呼び求め、「主よ。私に答えてください」と祈り続ける中で、「しかし、主よ。あなたは私に近くおられます」と、私のすぐ近くにおられる神の助けを、「みことば」から確信することが歌われていた。この詩篇記者にとっては、神が私の近くにおられること、それが何よりの助けであり、慰めであった。続く第20段落も、神の助けを必死に求める祈りである。けれども先の段落との違いが感じられる。主なる神に任せきる、そのような思いが込められているからである。

1、「私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。」(153〜154節)「私を助け出してください」「私を贖ってください」「私を生かしてください」と、切実な思いで助けを求めているが、前の段落で「私は心を尽くして呼びました」、「私はあなたを呼びました」と繰り返したのと違い、神ご自身が「私の悩みを顧み」て下さること、そして「私の言い分を取り上げ」て下さることに、自分を任せようとする姿勢がうかがえる。何よりも神が、私に目を留めて下さることに期待したのである。自分のことにしがみつくのではなく、神が成して下さることに目を向けている。これは祈りにおける大切な視点である。

 悪者が今も近くにいること、敵対する者の嘲りに悩まされることは続いていた。けれども、その存在に怯えることなく、「救いは悪者から遠くかけ離れています。彼らがあなたのおきてを求めないからです」(155節)と、救いから遠く離れた悪者と、救いを約束された自分を、冷静に比べる余裕を見せている。「みことば」に聞き従う者の幸いを噛みしめるかのように。そして、「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください」(156節)と、ここでも、「あなたのあわれみは大きい」ことに全幅の信頼を寄せている。必死の叫びのようでいて、実際には、神のあわれみの大きさを信じる、その信頼の言葉となっていたのである。

2、「私を迫害する者と私の敵は多い。しかし私は、あなたのさとしから離れません。私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらいました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。」(157〜158節)迫害する者や敵の多さに、これまではうろたえるばかりであったが、今は彼らをしっかりと見据えつつ、自分は「あなたのさとしから離れません」と言い切っている。また敵対する者の裏切りに悩まされていたが、「彼らを忌みきらいました」と、きっぱりと切り捨てることができた。「みことば」を守らない者たちの存在に、振り回されることはなくなっていたのである。そして「私を生かしてください」との祈りを繰り返した。「ご覧ください。どんなにか私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。」(159節)

 「私を生かしてください」との祈りが、切実であり、危急であったのは確かである。けれども、求める者の必死さや熱烈さより、神が私に目を留め、顧みて下さることにこそ信頼した。「私はあなたを愛します!」と叫ぶよりも、私があなたを愛していることを「ご覧ください」「顧みてください」と、神が見ていて下さる自分でよしとする、遜る様子が見られる。(※「どんなにか」は翻訳で付け加えられている。)神さま、私はあなたが知っておられる通りの者です。私が戒めを愛していること、あなたに従っていること、どれをとっても不完全な者でしかありません。それ故に「主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください」と祈るより他ありません・・・。復活後の主イエスから、「あなたはわたしを愛するか」と三度問われ、「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えたペテロの姿が思い浮かぶ。私たちは果たして、どのように祈っているだろうか。(ヨハネ21:15〜17)

3、「みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。」(160節)第19段落の結びで、「私は昔から、あなたのあかしを知っています。あなたはとこしえからこれを 定めておられます」(152節)と言ったことと似通っていながら、「みことばのすべてはまことです。・・・とこしえに至ります」と、自分が知っていることとは無関係に、「みことば」そのものが永遠に至るものと歌う。それだけ心が定まっていたのである。神への信頼、そして神の「みことば」への信頼というものは、神が神として存在しておられることや、神が語られた言葉に対する、絶対的な信頼が生まれるところに、いよいよ確かな道が開かれることになる。

 もちろん、私たち一人一人が感じること、また考えて考えて行き着くことの貴さを否定することはできない。それぞれの歩みにおいて、必死に探ることがあり、懸命に求め、祈ることがある。しかし、もし自分が懸命に求めたので神は答えて下さったと、自分のしたことに依り頼むことがあるなら、その時、私たちは神ご自身のあわれみの大きさや、恵みの豊かさを見失う恐れを免れない。見失うことはなくても、神を人間の側に引き寄せようとする誤りを犯す。それ程に私たち人間は、自分の力を頼り、自分を誇る誘惑にさらされているのである。この人は、そのような自分の弱さも知っていた。だから私を「顧み」て下さい、私を「ご覧ください」と、私に目を留め、そして手を差し伸べて下さる方に向かって、「私を生かしてください」と繰り返した。そこに、私を完全に知っておられる方にお任せします、との祈りを込めたのである。

<結び> 「私を生かしてください」と三度繰り返された祈りの内、二度目の祈りには、「主よ。あなたが決めておられるように」との言葉あって、その同じ言葉が、149節でも祈られていた。どちらも「主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください」と祈りつつ、その前に添えられた言葉が、「あなたの恵みによって私の声を聞いてください」と、「あなたのあわれみは大きい」と違っている。二つの段落の落ち着きの違いが、その言葉の違いに表れているのではないだろうか。同じ祈りでも、必死の叫びと、委ねきった叫びの違い、と考えられる。そして、私たち自身が、どのような祈り神にをささげているか、また、どのように神に身を任せる歩みをしているかが問われるのである。十年前の自分を思い出せるだろうか。五年前、二年前、一年前・・・。昨日より今日、今日より明日、そして一年後、二年後、五年後・・・、より神に信頼し、神に委ねる者となって歩ませていただきたいと心から願う。そんな歩みを導かれたいと思うのである。