パウロは、あいさつと手紙を書いた動機に次いで、直前の「福音の真理」「ユダヤ人の生活を強いる」という言葉を引き継ぐように本題に入ります。
本題の最初は「信仰義認」です。「律法の行いによる義」を主張し、パウロに敵対する者たちがいたこと、またパウロ自身の「律法による義」との闘いを背景にしながら「キリストを信じる信仰による義」をさらに念を入れて教え、「キリストが私のうちに生きておられるのです」(20節b)という告白に至ります。
私たちは、この告白が「イエス様を信じることによって義とされている」ことをよく現わしていると理解して、3つの点から教えられてまいりたいと思います。
1、まず、イエス様を信じることだけが、義とされる手だて、道であることです。
人間は、人間から生まれたまま、自然のままでは、神様に「義と認められる」ことはありません。人間は、神様に背いた最初の人間、アダムの原罪を負って産まれ、生きているからです。しかし、神様は、ご自身のひとり子であるイエス様をこの世に遣わされたのでした。イエス様は、人の罪を負って十字架にかかり罪人として、罪人の死を死なれ、そして復活され、義なる神の子であることを証されたのです。神様は、このイエス様を信じた者を義と認められているのです。
さらに大切なことは、人が義とされるのは、イエス様以外の道は全くありません。ですから、イエス様を信じる者は、ほかの道、手だてを一切、排除し、捨てることになります。神様の義の峻厳(しゅんげん)さ、聖なること、そして人間の罪の深さに対しては、義なる神の子、イエス様をおいて他の道はないのです。
パウロは、人が義とされるのは、イエス様による、しかもイエス様だけによるという厳しい条件を教えているのです。人の考えやわざを積み重ねて、神様の義に至る道は全くないのですから。私たちは、神様が与えてくださったこのイエス様をそのまま心に受け入れること(=信じる)だけです。
イエス様は「わたしは道です。」(ヨハネ14:6)と言われました。イエス様が、十字架と復活において、まことの神様の義に至る唯一の道となってくださったのです。私たちはその道を歩むことを許されている者です。このことを感謝をもって覚え、喜びをもってこの道を共に歩み続けてまいりましょう。
2、次に、イエス様が、私のうちにおられるのは、信仰においてです。
イエス様をアーメンをもって、「神様、あなただけが真実です」として受け取り、心に受け入れることが、イエス様を信じることです。信仰です。それは、イエス様が私のうちにおられるというというかたちで、私たちがイエス様とつながり、イエス様とひとつに結びついている状態を意味しています。
神様は、私たちの心をご覧になり調べられる方ですが(ルカ16:15、Tテサロニケ :)、それは、私たちの心の中にイエス様がおられるか否かをご覧になり、調べられていることなのです。「あなたの心のうちに、十字架と復活のイエス・キリストが生きていますか。」と問われていることです。そしてこの問いは、私たちが義とされ、日々に神様の前に祝福をいただいて生きることが出来るか否かが問われていることです。さらには、終わりの日に私たちひとり一人が神様の前に立ち永遠の御国に迎えられるか否かが問われることにつながる事柄なのです。それは、十字架と復活のイエス様が私のうちにおられて、罪が赦され、神様との正しい関係が回復し、永遠のいのちが与えられているかどうかが、問われていることなのです。
また、イエス様が私たちのうちにいてくださる、と告白できるのは、神様が与えてくださった信仰によっています。律法を行うことなど、人のわざによるものでは全くありません。
私たちはともすると自分の熱心や、努力、忍耐をもって信仰を証して、神様に評価していただき、義とされたいという思いが心をよぎることがあります。しかし、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」(イザヤ55:8)と言われる聖なる神様が求めておられるイエス様への信仰は、神様によって与えられる以外にはないことを改めて覚えたいのです。
3、イエス様は、私のうちに、生きていてくださいますから、私も生きます。
20節にありました、「いま私は肉にあって生きている」というのも、「御子を信じる信仰によって生きる」のも同じ「生きる」という言葉が用いられています。しかし、聖書、とくに新約では、その「生きる」ということが、どういういのちに基づいて営まれているのか、「いのち」につては、かなりはっきり区別しています。
例えば、ヨハネ福音書12:25にはこうあります。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」。自分のいのちと永遠のいのちとは、違う言葉が用いられています。自分のいのちの方は、人間をも含めて、動植物など、地上の命あるものの命。永遠のいのちの方は、永遠の御国に生きることのできるいのち、神様による霊的ないのちですから、ふさわしい言葉が選ばれます。
ですから、この20節には、「生きる」が4回繰り返されていましたが、その背後には、相異なる2つの「いのち」が、行き交いながら、「生きる」という言葉が現われていることを読み取る必要があります。ローマ書8:23b-24aを覚えると、19b-20節はこう読めると思うのです。
「肉のいのちで生きてきた罪人の私は、イエス様とともに十字架につけられ、死にました。ですから、もはや私は、肉のいのちで生きているのではありません。しかし、現実に私は今、まだ肉のいのちにあって生きているのですが、同時に、イエス様を信じている私のうちに、十字架と復活のイエス様が、生きておられます。それで、私もイエス様と全く同じに十字架につき、永遠のいのちで復活する希望において生きているのです。それは、イエス様は、ご自分のいのちを与えてくださるほどに私を愛してくださっている神の子であり、そのみことばは真実であることを信じる信仰によって、この希望が与えられているからです。」(Uコリント4:7a参照)
義なる神の子イエス様は、私たちがイエス様を信じることにおいて、私たちのうちに生きていてくださいます。それで私たちは、義とされて、神様の前で生きています。イエス様も信仰も神様がお与えくださっていることを改めて覚え、イエス様の父なる、生ける真の神様をたえつつ信仰の生涯を歩み続けてまいりましょう。
最後に、今日の招きのことば、Tコリント1:30をもう一度、読みます。
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