礼拝説教要旨(2010.09.05)
近くにおられる神
(詩篇 119:145~152)

 詩篇119篇も残すところ四つの段落となった。第18段落を、「あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです。苦難と窮乏が私に襲いかかっています。しかしあなたの仰せは、私の喜びです。あなたのさとしは、とこしえの義です。私に悟りを与えて、私を生かしてください」(142~144節)と結んだものの、第19段落は、神の助けを求める激しい祈りで始まる。「私は心を尽くして呼びました。主よ。私に答えてください。・・・」(145節) アルファベットの「コーフ」の文字が関連するのか、カ行の音がかもし出す緊迫感が、この段落の特徴となっている。

1、助けを求める祈りは、簡潔で明解である。「主よ。私に答えてください。」(145節)「私をお救いください。」(146節)「私はあなたのことばを待ち望んでいます。」(147節)「私の声を聞いてください。・・・私を生かしてください。」(149節)神さま。あなたが私を助けて下さるのでなければ、私は立ち行けません。だから私はあなたを呼びました・・・と激しく訴え、祈り続けている。空しく叫ぶのではなく、「心を尽くして呼びました」と、真実で、真剣な叫び声を上げていた。その真剣さは、ただ願うのではなく、神に対する約束を申し上げ、決して自分勝手ではないことも告げている。「私はあなたのおきてを守ります。」「私はあなたのさとしを守ります。」(145、146節)

 この人の求めの必死さは、その祈りの生活に表れていた。「私は夜明け前に起きて叫び求めます。・・・私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。」(147~148節)先に、「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し」(55節)と歌い、そして「真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します」(62節)と言ったように、彼にとって祈りは、一日中欠かすことのないものであった。けれども、求めが切実な時、朝早くが神に近づく時となっていた。「夜明け前」あるいは「夜明けの見張りよりも先に目覚め」ることが、この人の祈りの生活となっていたのである。その祈りにおいて求めたのは、「みことば」であった。神が私に何を語り、何を教えようとしておられるのか、そのことに「思いを潜め」ることであった。そして、私の思いを知って下さい、私を生かして下さいと願ったのである。

2、朝早く祈る習慣の大切さは、言うまでもないことである。けれども、同時に、それ程容易いものではないのも事実である。(※その難しさは、私だけのものかもしれないが・・・)主イエスが、朝早く、人を避けて祈られたこと(マルコ1:35)、また多くの信仰の先輩たちが、祈りによって堅く立ち、よい証しを立てた・・・と聞かされ、励まされ、自分もそのようにしようと決心したものの、続かずに意気消沈したという人もいるに違いない。確かに訓練の必要なことであり、しかしまた、必要に迫られるなら、すなわち、求めが切実であると、夜明け前に起きて叫び求めることが導かれるのも事実である。神はご自身の民を、必ず導き、ご自身の傍へと招いて下さる。弱さがあって、自分ではとてもできないと思っていても、必ず確かな祈りに導いて下さるのである。

 この詩篇の記者も、実は完璧な人ではなかった筈である。祈りの習慣が身に着いていたので、「夜明けの見張りよりも先に目覚め」たわけでなく、求めの切実さや、苦難に押し潰されそうになって目覚め、祈らずにはおれないということがあったのかもしれない。「私に答えてください」、「私をお救いください」、「私を生かしてください」との叫びには、そんな切迫感が込められている。もう待てません、早く助けて下さいとばかり・・・。「悪を追い求める者が近づきました。彼らはあなたのみおしえから遠く離れています。」(150節)悪を企む者が近づき、危険が目の前に迫っています・・・、このままではどうなるのですか、と心配に心は張り裂けそうになっていたのである。

3、ところが、悪者の接近にたじろぎ、彼らが神の教えから遠く離れている事実に思い至るや、真の神、主が、かくも近くにおられる幸いに気づくことになった。それまでは、神の助けがないことにうろたえていたが、今や神ご自身が、私のすぐ近くにおられること、繰り返し約束しておられるように、「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われた言葉を、はっきりと思い出すことができたのである。それ故に「しかし、主よ。あなたは私に近くおられます。あなたの仰せはことごとくまことです。私は昔から、あなたのあかしで知っています。あなたはとこしえからこれを定めておられることを」と、確信を込めて歌うことができた。(151~152節)世の人々がどれだけ敵対したとしても、私は神を仰ぐ! と心から言うことができたのである。

 「主よ。あなたは私に近くおられます。」この告白は、「神は私たちとともにおられる」を言い換えたものと理解できる。神が共におられる、神はいつも私のすぐ近くにおられ、必要な時、手を差し伸べて下さると、心から信じるなら、私たちもまた、何時如何なる時も、慌てることはない。困難に直面して、動じることがあっても、恐れが目の前に迫り、押し潰されそうになっても、その時、神が近くにおられると気づくなら、決して恐れることはない。神が支えて下さるからである。神の約束は、永遠から永遠に至るまで、決して変わることはない。聖書全体が、この約束に満ちている。主イエスは言われた。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35、申命7:21、ヨシュア1:5、9、詩篇50:15、91:15、イザヤ30:15、55:6、マタイ28:20、ヨハネ14:16、18、16:33、ガラテヤ2:20、ピリピ4:13等々)

<結び> 私たちは、神がどれだけ私たちの近くにおられるのか、実感をもって知っているだろうか。主イエスご自身は、父なる神と一体であるという捉え方をしておられた。「しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」(ヨハネ16:32)そして、それと同じように、キリストを信じる者も一体となるように祈られた。「父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。」(ヨハネ17:21)キリストにある者、キリストを信じる者は、最早キリストを離れて存在しているのではなく、キリストにあって神の近くを生きる者、神と共に生きる者なのである。世にあって恐れなく、また迷うことがあっても、絶対的な助けを得て生かされている存在である。近くにおられる神に守られている幸いを、決して見失わないで歩みたいものである。