8月最終の主の日を迎えた私たち、今月、どんな思いで過ごして来ただろうか。猛烈な暑さに、身体も心も疲れを感じるこの頃かもしれない。今一度、この国にあって生きる上で、心すべき教えに耳を傾けてみたい。それは、心を騒がせることの多かったこの8月、この地上で何があろうと、私たちは何を心に留め、何を信じ、何をして生きるのか、その大切な教えを「みことば」から聞くためである。どんなに心が騒いだとしても、生ける神が私たちと共におられ、その神が私たちに、従うべき教えを語っておられるからである。
1、テモテへの手紙第一は、パウロがローマでの獄中生活(AD61〜63年)から一時解放された時、エペソの教会の責任を負っていたテモテに宛てたものと考えられている。(AD64、5年頃)紀元一世紀の後半に差し掛かり、教会の歩みには様々な困難が生じていた。ローマ帝国による迫害が目の前に迫りつつ、問題が教会内部にあって、テモテは苦悩していた。偽教師たちの教えがはびこり、教会を建て上げるのに苦闘していた若いテモテを、パウロは何とかして励まそうとした。そして第二の手紙は、そのパウロが再び捕らえられ、獄中からテモテに宛てているが、死の近いことを告げているように、外からの難題が大きくなる、緊迫した時代にあって書かれていたのである。(AD67年頃)
心を穏やかにするのは困難な時代にあって、教会はどのように歩むのか、キリストを信じる神の民は、何を考え、何を思い、何をするのか、そのような課題に、端的に明解に答えを与えている。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1節)困難な状況が深刻であればある程、具体的な対策が求められる・・・というのがこの世の常識である。けれどもパウロは、「祈り」を勧めた。「願い、祈り、とりなし、感謝」という四つの側面を示して、祈りにおいて神に心を向けること、これが、今何よりも必要と強調した。祈りには様々な側面があり、時に願うことばかりに向かい易いが、ひたすら神に祈ることの他、周りの人のためにとりなし、神の御業に目を向けて感謝することを勧めるのである。
2、また祈りは自分のためにするものと錯覚し易いのを、パウロは「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために」と、世にある限りは、周りの「すべての人のため」に祈ることの尊さを教えようとした。困難があればある程、人は内向きになる。しかし教会は、どんなに少数であっても「地の塩」「世の光」として、「すべての人のため」に祈る務めが与えられているからである。更に「王とすべての高い地位にある人たちのため」に祈るようにと勧める。この世で権威ある地位の者、為政者たちのために祈ることは、神の民の尊い責任であると。彼らがこの地上でその務めを果すのは、神ご自身が良しとされることであって、「私たちが・・・平安で静かな一生を過ごすためです」と、キリストにある者だけでなく、全ての人が平安で、心穏やかに日々を過ごすことを、神が望んでおられるからである。(2節)
「私たちが敬虔で、また、威厳をもって」と言われることは、神の民である教会に連なる者が、神を恐れ敬い、信仰深く生きること、神の前にも人の前にも正しく生きること、そうした信仰者としての生き方に関わることで、信仰生活が妨げられることなく続けられることを、神は心から望んでおられるのである。一人一人が、誰にも妨げられずに、「平安で静かに一生を過ごす」こと、それは、先ず神ご自身が願っておられ、喜ばれることであると、私たちもはっきりと心に覚えたい。そのために祈ることは、何にも増して尊いこと、本気で祈り続けることが、私たちの務めであると再確認したい。そのような祈りをささげるのは、「私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(3節)
3、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために」祈ることが、なぜ「神の御前において良いことであり、喜ばれること」なのか。その理由は、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と明解である。(4節)神は、「すべての人が救われて、真理を知るようになる」のを望んでおられるからである。そのためには、この地上が「平安で静かである」ことは欠かせない。すなわち、福音を宣べ伝えるための環境が整っていることが大事と、パウロ自身は気づいていたのである。キリストを救い主と信じて神に立ち返った人々が、その信仰に立ち、忠実に歩み続けるには、この世が平穏であること、為政者たちが十分にその務めを果していることが何よりも大事だからであった。
神は唯一であり、神と人との仲介者は、人となられたキリストのみであること、このキリストが十字架で贖いの代価を払って下さったこと、このキリストを宣べ伝えるために、使徒としての生涯を歩んでいたことを思い返しつつ、福音を伝えるために、この世が平穏であること、平和であることの尊さをパウロは痛感していた。(5〜7節)ユダや人の抵抗を受けてローマに上訴したが、実際のところ道が開けたとは言えなかった。全てのことが益に変えられるとの確信は揺るがずとも、この世を支配する者たち、上に立つ者たちのために祈ることの必要を実感していたのである。だから、テモテに祈るように勧めるのである。そして、そのような祈りを通して、神が必ず働かれることを経験していたのである。私たちも、今この時代にあって、為政者たちのために祈ることを、決して忘れないように導かれたい。
<結び> この8月、私たちのささやかな祈りが聞かれた事実として、首相および全閣僚が靖国参拝をしなかったことを覚えたい。1980年以降初めてのことで、一部の人は参拝しないことで怒りを表していたが、私たちは祈りの答えを感謝したい。(※私たちの教会は、旧日本基督長老教会の時代より、公式参拝反対の意思表示を繰り返して歩んで来た。)日本の社会にとって靖国神社は、残念ながら、全国民を偶像礼拝へと誘う象徴のような存在となっている。戦前はもちろんのこと、戦後も折に触れて偶像礼拝への誘いは、実に巧妙になされている。これからも為政者たちが何を考え、何をするのかをよく注視するとともに、彼らのために祈り続けることが私たちの務めである。そして今また、国民不在の権力争いをしているとしても、それでも徒に裁くことではなく、彼らのために祈ること、願い、祈り、とりなし、そして感謝をささげるまでに祈ることが、私たちの責任であり務めであることを覚えたい。そうすることが、福音の前進のためには必要である。「平安で静かな一生を過ごすため」に、その祈りが必要であり、神が「すべての人が救われ、真理を知るようになる」のを望んでおられることを、私たちが決して忘れないようにしたいのである。
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