礼拝説教要旨(2010.08.21)
あなたとともにある
(ヨシュア記1章) 説教者:枝松 律(ただし)教師候補者

 ヨシュア記は、出エジプトを果たしたイスラエルが、神に導かれ、ヨルダン川を渡り、約束の地カナンへと入っていく、そのようなイスラエルの歴史が語られている書です。とりわけ、このヨシュア記1章は、モーセの後継者ヨシュアへの任命がなされると同時に、神が、ヨシュアとイスラエルに何を求めておられるのかが浮き彫りにされている箇所であるといえます。

1. 1節では、神が、ヨシュアに語られるところから始まりますが、2〜4節では、神が、イスラエルになされた約束、カナンを与えることについての言及が成されており、「立って、ヨルダン川を渡って、行け」という言葉は、「あなたとあなたの民」とあるように、ヨシュアを含めたイスラエル全体への神の言葉、指示でありました。
 他方、5節から9節では、「あなた」とあるように、ヨシュア個人への神の言葉が語られています。5節では「わたしはあなたとともにいよう」とあり、9節後半でも「あなたと共にある」と5節と同じ意味の励ましの言葉が語られています。つまり、このヨシュアへの神の言葉の最初と最後に、「私があなたとともにいるのだ」と神の励ましの約束が語られているのです。
 さらに、6節から9節では、その励ましの約束に挟まれる形で、「強くあれ、雄々しくあれ」と3度も命じられています。ここで神が、ヨシュアに、指導者として、強く、雄々しくあれ、と言われているのには、2つの理由がありました。
 @ 6節:イスラエルを導き、戦い、約束の地を継がせるため、つまりヨシュアの使命 を全うするため。
 A 7、8節:どこにいても、昼も夜もつまり、いつでも律法を守り行うため。
これらは、理由として別々に見えますがそうではありません。なぜなら、ヨシュアに与えられた使命は、神がその言葉で与えたものであり、その使命も神の指示によって成されるものであったからです。つまり、その使命を全うすることは、神の言葉に従うことだったのです。神の言葉に従っていく、ここにヨシュアの使命の本質が表わされています。と同時に、申命記で与えられた律法も神の言葉です。神の言葉に従っていくために、強く、雄々しくあれということなのです。
 また、この二つの理由は、指導者としてヨシュアが民を導く上で繋がっているとも言えます。7、8節では、律法を守り行っていくときに、あなたは「栄える」「繁栄する」と言われています。この「栄える」は、ヘブル語で元々「良い明察を得る」の意味を持っており、「繁栄する」は「成功する」の意味を持っています。換言すれば、民を導く指導者として、神の律法を守っていくその中で、良い明察を得、成功することができる、その使命を全うすることができる、ということです。

2. それでは、神の言葉に従っていく上で、指導者ヨシュアに「強さ、雄々しさ」が求められているのは何故だったのでしょうか。これは、9節で「恐れてはならない、おののいてはならない」とあるように、ヨシュアに与えられた使命を果たしていくことと、律法を指導者として遵守していくこととは、おそれとおののきを伴うものであったからです。だからこそ、おそれないで神の言葉に従っていく「強さ、雄々しさ」を神は求められておられたのです。そのような意味で、この神の言葉は実に厳しい命令であったと言えます。しかし、この神の言葉は単に厳しいだけの命令ではありませんでした。なぜなら、
 @ 「強くあれ、雄々しくあれ」を挟む形で、5節と9節に「主が共にいる」との励ま しの約束が与えられている。
 A 9節「主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」とい う言葉には、ヨシュアが、強く、雄々しくあって、神の言葉に従っていくことができる ように、いつも神ご自身が助け、導いてくださることが含まれており、これは、神が共 にいてくださるからこそ、神の言葉を全うし、その使命をやり遂げることができるとい う約束でもある。
 B 7節の冒頭で「ただ」とあるが、この「ただ、強くあれ、雄々しくあれ」との命令 は、「ただ」それだけで良いんだ、ただまっすぐにそれをしなさい、との励ましでもあ ったと考えられる。
以上のことを踏まえると、5節から9節の神の言葉は、ヨシュアへの神の励ましで満ちていると言えるからです。
 モーセに付き従い、荒野の40年を経て、訓練を受け続けたヨシュアもまた一人の人間です。彼の心にも当然、恐れや重圧はあったことでしょう。だからこそ、その使命が始まる1章で、このような励ましの約束がなされたことは、彼にとって大きな励ましとなったのではないでしょうか。何より、神が「自分と共にある」こと、またその神の言葉へ信頼すること、それらこそ彼を、神の言葉に従っていくために「強く雄々しく」させるものであったのではないでしょうか。神が自分と共にいるのだ、だから大丈夫なのだ、そのような信頼がヨシュアの内に、強く、強く起こされたことは想像に難くないものです。

3. 一方、ヨシュアと同様に、2節で命令が成されていたように、イスラエル全体としても、神の言葉に従うことは、無関係ではなく当然のことでありました。他方、民の方としては、神の言葉に従うと言う点で、もう一つの視点があります。それは、神の声を聴き、神の言葉に従っている指導者ヨシュアの言葉に従っていく、つまり、ヨシュアを通して語られる神の言葉に従っていく、ということです。このことは、10節から18節に記されています。
 10、11節では、2節の神の命令を受けて、戦争のためヨルダン川を渡っていくための準備をしなさい、とヨシュアはつかさたちに命じています。神の言葉を受けて、それを伝えるヨシュアの姿がここでは表わされています。
 他方、12節から15節における、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に対する、ヨシュアの言葉は特別なものです。彼らが、これからヨルダン川を渡って、西側に土地を得ようとする者達とは違って、モーセの時代、ヨルダン川の東側にすでに土地を与えられていた者達であったからです。彼らにとって、西側を得る使命を持っている指導者ヨシュアは曖昧な位置にいました。しかし、彼らにはモーセの時代、自分達が土地を得ても、同族を助けるようにとの命令が出ていました。ヨシュアがあえて13節「モーセがあなたがに命じて」と言って、モーセの言葉を引用したのはこのためです。
 16節〜18節では、彼らのその返答が記されていますが、彼らは、モーセに従ったように、ヨシュアに従っていくと告白しています。イスラエルの民のあるべき姿がここでは映し出されていますが、これは、神がヨシュアと共におられたからであり、そのことを彼らがわかっていたからです。何故なら、申命記31章7、8節において、ヨシュアはすでに「主があなたとともにおられる。… 恐れてはならない。おののいてはならない。」 との言葉を、民の前で、モーセに祝福される形で受け取っていたからです。
 また、17、18節では、7節で使用されていた励ましの「ただ」が、2度も繰り返されており、ヨシュアへの彼らの励ましを読み取ることができます。しかも、その言葉には「あなたとともにおられますように」との、神への祈りが込められているのです。更に言えば、彼らの祈りには、指導者ヨシュアに託された使命のため、彼が強く、雄々しくあるためには、神が共にいてくださらなければならないと、いえ、神が共にいてくだされば大丈夫だという、ヨシュアが抱いていたと同様の信頼が含まれているのではないでしょうか。と同時に、自分たちの指導者が神とともにあることは、神が自分たちとも共におられることでもあるとわかっていました。彼らは、ここで、ヨシュアを通して、神への信頼を告白しているとも言えます。
 以上、1章を見てきましたが、一貫していることは、ヨシュアも民たちも、神の言葉に従っていくことが求められているということです。そしてその中心には、「私は、あなたと共にある」という励ましの約束と、その言葉への信頼によって、おそれおののかないで、強く、雄々しくあって、神の言葉に従っていける、という事実があるのです。

結び. ヨシュアやイスラエルのように、私達にも、この地上においてそれぞれに役目が与えられています。それは様々でしょう。しかしいずれにしろ、イスラエルと同様に、私達もこの地上において、御国という約束の地を目指している者達です。だからこそ、私達にとっても、最も重要なことは「わたしはあなたとともにある」という約束が、私達にも成されていることを今一度、再確認することなのではないでしょうか。そして、その約束への信頼によって、この地上での歩みを、恐れから解放されて、強く、雄々しくあって、神に従う歩みの中で全うさせていただく、ということです。神が共にいてくださる、その信頼によって、自らの歩みが、神にかなったものであるようにと願いつつ、日々の歩みを確かにしたいものです。