礼拝説教要旨(2010.08.15)
真の平和。神だけが実現される
(レビ記 26:1〜13) 説教者:高橋 善樹

神様は、出エジプトした民がやがて約束の地カナンで、神の前に正しく生きるための戒を与え、シナイ山のふもとで民と契約を結ばれます。これがレビ記です。
このシナイ契約の終わりの所から、65回目の終戦記念日にあたる今日、真の平和について教えられ、平和への祈りと働きを新たにしたいと思います。

1、まず、人間は自らの力で地上に平和を実現することに望がないこと、およびその理由を悟らねばならないことです。
人間の歴史、世界の歴史は、闘い・争いの歴史であると言えないでしょうか。国と国が、民族と民族が、支配する者と支配される者とが、人と人とが、そして人間と自然がです。いや、今もあり、そしてこれからも闘い・争は続くと思われるのです。
人間の闘いと争いの歴史の行き着いた先、その頂点に、第二次世界大戦(1939-45年)があるのです。私たちは、この世界大戦の教訓として、人間は自らの力では地上に平和を実現することに望が全くないことを深く学ぶ必要があったのではないでしょうか。
聖書は、なぜ人間が闘い・争い、つねに平和の危機にさらされ、平和への見通しさえ持てないでいることについて、人間が、神様との平和な関係を損ない・壊してしまったからであると教えています。
神様が禁じられた「善悪の知識の木」から取って食べた人間(アダム)が、隣人に最初にしたことは、「この女が…・」とエバを言い立てることでした(創世記3:12)。そして、アダムが耕す土地には、「あざみといばらが生え」(3:18)自然との闘いとなります。  
人は、神様との平和な関係を断たれ、平和の園エデンから追い出されます。アダムとエバに与えられた息子カインは、弟アベルを殺します。以下、聖書、とくに旧約聖書は、国と国が、民族と民族が、人と人が、そして人間と自然が闘い・争う歴史を記します。
平和を失った人間。それは、人が神のひとりのようになり(創世記3:22)、人間自身が偶像となり(26:1,2)、神に背いた罪に起因していと聖書は言っているのです。  
この世界大戦において神様は、戦勝国、敗戦国にかかわらず、まことの神を恐れず、偶像に従い、むさぼりの奴隷となっている国家、民族、支配する者、そして人間を 背きのままに、罪のなすがままにされ、偶像を拝む者の愚かさ、深刻な罪の姿をあばかれたということではなかったでしょうか。
世界は、平和への思いと行動をどう変えたでしょうか。人間の可能性にどれだけ絶望し、神の前に深く悔いたでしょうか。現代史をこの観点から厳しく見つめ直す必要があると思います。

2、そして、真の平和を実現されるのは、まことの神様だけであることを知り、神様に平和を願い求めるべきことです。
全知全能なる神様は、宣言されます「わたしはまたその地に平和を与える。」(6節)それには、当然1〜3節の条件が必要であることを神様は、はっきり示されます。まことの神を神とし、人間自身をも含めて神ならぬものを神としないことです。
私たちは主の祈りにおいて、「御名をあがめさせたまえ」、“あなたの御名が、聖とされますように”、すなわち、“どのような時にも、神様のみこころが最も尊いこととして最優先されますように”と祈りますが、このことは、偶像を拝まない、偶像を退けることです。
神様の「御名をあがめること」は、また神様と平和な関係にあることです。この関係において、神様からまことの平和が与えられ、4,5節の豊かさが与えられ、6-10節の平安と祝福が約束されているのです。
次に、平和というのは、国と国との戦争がない状態、“国の安全保障”であるという考え方がありますが、今日、国連、ユネスコ、ユニセフなどは、「欠乏からの自由が平和にとって欠くことができない」こととして、貧困、病、失業、難民等から自由であること、“人間の安全が保障されていること“が平和であると考えて、人間開発を重視した計画を展開しています。この考え方の背景に、あるいはその源に神様のことばがあることが考えられます。詩編の信仰者は、まことの神は、こういうことをなさる方であると言っています。
「主は、・・・しいたげられる者のためにさばきを行い、飢えた者にパンを与える方。主は捕らわれ人を解放される。 主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、 主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。」(146:6b-9)
聖書は、戦争を止めさせ、戦争の原因を断ち、争いの心(憎しみ、復讐心)を取り除くのは、神様だけであることを教え、人類は、膝をかがめて神様に平和を乞い求めるべきことを限りなく指し示しています(イザヤ2:4、詩篇46:9,10、マタイ5:38-41)。

国連とユネスコに触れましたので、世界平和のために設けられた両機関の活動理念が、聖書的であることにも触れてみたいと思います。
ニューヨークの国連本部ビルの土台石には、イザヤの預言2:4が刻まれていることはよく知られています。また、ユネスコ憲章の前文は、その冒頭でこう記しています。「戦争は、人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。」。憲章は、人の心に注目しています。腹を立てる者、憎しみ、復讐心を持つ者は、人を殺すことに等しいと言われ、心を問われるイエス様の教えと響き合ものがあります(マタイ5:21,22参照)。そしてもっと大切なことは、両機関がその基盤を人間の平和への知恵と努力に期待し前提におきながら、さらに深く人を超えた存在の力と導きをも忘れていないことを物語っていないでしょうか。
この大戦を通して神様は、国と人間の罪のなすがままにされ、その罪を徹底的にあばかれますが、それは、人が悔い改めてご自身に立ち返って来ることのためであり、神様は、今も忍耐強く待っておられることを人間は忘れてはなりません。(Uペテロ3:9)

3、さらに、神様は、真の平和を実現するためにイエス様をこの世に遣わされるとともに、イエス様を信じる者を平和のために備えられていることです。
11,12節にあります、「わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。」は、イエス様においてこの世の只中に実現されます。
神様は、人間をご自分の名とみこころを知り、ご自身と交わることのできる存在として造られたのでした。これが神様と人間の正しい、秩序のある関係です。これが平和です。人が、神のひとりのようになったこと(創世記3:22参照)は、この秩序を、平和を突き崩したことを意味します。しかし、平和の神様(Uテサロニケ3:16)は、人との和解のためにイエス様を「平和の君」(イザヤ9:6)としてこの世に遣わされました。平和という「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)のです。
さらに、神様は、平和の君イエス様を信じる者を「平和を造り出す者」(マタイ5:9)
として聖霊とともに世に遣われます。それが私たち、キリスト者です。
私たちは、イエス様の御名による平和への祈りを神様は、聞いてくださることを知っ
ています。65回目の終戦記念日に、私たちに与えられている平和への使命をもう一度、深く覚えたいと願う者です。