礼拝説教要旨(2010.08.08)
知恵のある、賢い人はだれか
(ヤコブ 3:13〜18)

 私たちは、聖書を信仰と生活の唯一の規範として信じている。そして詩篇には、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と、はっきりと歌われていた。(119:105)私たちは毎年、8月は、私たちの国の歴史と無関係ではいられないことを痛感させられる。6日、9日、15日と確実に巡ってくる日を、特に意識して過ごすように、いろいろな形で促される。今朝は詩篇119篇を休んで、この時に何を思い、何を御言葉から聞くのか、そのような思いで聖書を開いてみたい。

1、人それぞれに、自分の人生があり、自分の思いがあり、その全てを共通のものとするのは、到底不可能なことであろう。けれども、一つの国の歴史、その国の歩んだ道というものについては、共通の認識が必要と考えるは、自然ではないだろうか。ところが、今、この私たちが住んでいる日本の社会において、「共通認識」と思われていたことが、知らない間にかなり激しく揺らいでいると思われる、そんな現実に直面させられことがある。それは、「戦争と平和」を巡る思いの変化、と言うべきものである。社会全体の思いしかりであるが、教会の中にも、「あれっ?」という、表現し難い違和感を覚えることが起り始めているのである。

 日本長老教会は、「戦争に関する公式見解」を1997年11月の大会にて採択した。1991年の湾岸戦争を契機に、私たちは「戦争」についてどのように考えたらよいのか、その問い掛けに答えを出そうとした。ウェストミンスター信仰告白の第23章に、「合法的に戦争を行うこともありうる」との表記があり、果たしてこれをどう解釈するのか、と問われたからであった。結論は、「合法的に」とは言え、それは限定的に、また消極的に許容しているだけと理解し、日本長老教会としては、過去に戦争を経験し、その上で平和憲法を持つ日本にあって、「戦争回避」のあらゆる努力をすることが、個人としても、教会としても、その責任は大きいとした。日本国憲法の平和主義は、単なる理想主義からでなく、戦争の悲惨さを歴史から学んだ国民の反省と決意を伴う、「現実的で自主的な選択であった」と認め、そこに「神の摂理と知恵とをみる」からである。

2、「あれっ?」という違和感とは、この公式見解採択後に、世界情勢の変化により、日本の政治状況は激変し、新たな戦前の始まりと思える法律が国会で次々と成立したのに対し、大会会議で、私たちの教会がどのように取り組むかを議論しようとしつつ、その議論が噛み合わなくなったことである。もし、急に「戦争」になったなら、たちまち一つの思いに引きずられ、皆が同じ方向に向かわせられる、そんな戦前の悪夢は、いつでも起こることなのかと、そんな危機感を抱かせられた。同じような変化が他教会、他教派でも起っていると知って、愕然とする思いでもある。教会がこの世にあってどんな責任があるのか、そのような肝心な事案に対して、思いをまとめ切れないとしたら・・・。(参照「平和をつくる教会をめざして」袴田康裕*篇 一麦出版社)

 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれるから。」(マタイ5:9)主イエスの言葉は明白である。私たちは「神の子」とされ、「平和をつくる者」としての務めを与えられ、その使命に生きる幸いな者と認められている。しかし同時に、その務めを十分に果しているかどうか、神の民として、この世で確かに生きているかを問われると、どう答えるのだろうか。「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。・・・」(ヤコブ3:13〜18)「戦争」のことを考え、そして「平和」のことを思うと、必ずのようにこの言葉が、私の心の中を駆け巡る。その教えは、「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」と結ばれている。神を信じる私たちは、「平和をつくる人」として生きているかどうか、そのことが徹底的に問われているのである。

3、「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。」(14節)聖書は、私たちが地上にある限りは不完全であることを見抜いて、心の中のねたみや敵対心に気づくよう促している。そして、上から来る知恵と、地に属すもの、私たちが遠ざけるべきものを見分けるように教えている。「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」(15〜16節)上からの知恵をいただくことによってのみ、柔和な行いが生まれ、互いに和らぐ生き方が生まれるからである。

 「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(17節)「平和」を追い求めつつ、実際に争いに陥るのが、私たち人間の愚かさであろう。「力」、すなわち「武力」による「平和」、これが人間の行き着く現実である。「しかし、上からの知恵は・・・」と聖書は告げる。人間には全く不可能なことを、神を頼り、神に聞き従い、神からの知恵によって生きよと。神の御子、イエス・キリストの十字架によって罪を赦された者は、その生き方が変る筈であり、また変らなければならないと命じている。もしイエス・キリストを信じているなら、必ずその信仰に相応しい行いが導かれる、だから、その行いに生きるようにと励ますのである。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(18節)それは、人と人が互いに交わす言葉の大事さ、その尊さを心に刻むよう促している。

<結び> イザヤ書2章4節には、「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と、終りの日に、神がもたらす「平和」についての預言が語られている。また主イエスは言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52)聖書は、「力」の行使には否定的である。戦いに明け暮れた者が、「二度と戦いのことを習わない」者となること、これが神の御旨であると気づかされる。私たちは、この御旨を心に刻んで、この月の一日一日を過ごしたい。また「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか」との問い掛けを聞き、「その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい」との勧めに、真実に応えたい。そのように生きることができるよう、主の導きと助けを祈ろうではないか。

※6日の広島の記念式典に国連事務総長が出席した。また米国の駐日ルース大使が出席した。画期的なこと!! 菅内閣は、日韓併合100年に当り、談話を出そうとしている。韓国側からは、併合は強制的で無効と言われる中で、どんな談話が発表されるのか注目されている。(1910年8月22日に日韓併合条約が結ばれ、一週間後の29日にその条約は施行された。)