礼拝説教要旨(2010.08.01)
永遠の義
(詩篇 119:137〜144)

 第十七段落の結びは、「私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです」(136節)と、「みことば」に背く者たちのため、執り成しの祈りをささげる姿が歌われていた。けれども、そこには祈る者の苦悩があったに違いない。この世では、どんなに祈ったとしても、直ぐには事態が好転しない現実があったからである。続く第十八段落は、「ツァデー」で始まる「正義:ツェデク」を全篇の主題とし、人の世に「正義」を求める空しさを実感しつつ、確かな「義・正義」は神にのみあることを確信している。

1、「主よ。あなたは正しくあられます。あなたのさばきはまっすぐです。あなたの仰せられるさとしは、なんと正しく、なんと真実なことでしょう。」(137〜138節)冒頭で、「主よ。あなたは」と、「あなた」を強調し、「正しい:ツァディーク」のは「あなた」だけです、主がなさる「さばき」と、主が語られる「さとし」、すなわち「みことば」が「正義:ツェデク」ですと賛美する。生ける真の神だけが、その「存在」と「行い」と「言葉」において「正しい」方であると。神を認めない人間は全く比較にならない。存在の根拠は定かでなく、行いは移ろい易く、言葉も揺れ動く。人の言葉の余りの揺れようは、誰もが気づいていることである。人に期待して裏切られ、それでもまた期待し・・・と、空しい繰り返しさえ経験するのである。

 この詩篇の記者は、そのような繰り返しを経て、頼みは神の「みことば」のみとの結論に達していた。「私の熱心は私を滅ぼしてしまいました。私の敵があなたのことばを忘れているからです。あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。」(139〜140節)神のことばを聞こうとしない者、敵対する者に何度となく攻撃され、時には、神への熱心の余り、激しく怒って立ち向かい、彼らを何とかしたいとも願ったのである。彼らにも、神に頼る道を歩んで欲しいと願いつつ、憤りにも似た思いが、今も湧くのであった。けれども、大事なことは「あなたのしもべは、それを愛しています」と言うことであった。私が、「それを愛しています」と「みことば」に信頼すること、そのことを「みことば」によって悟る者とされていた。

2、こうして、「私はつまらない者で、さげすまれています。しかし、あなたのいましめを忘れてはいません」(141節)と、心から言うことができた。自分を卑下するのではなく、また慎みを込めて「つまらない者」と言うのでもなく、「みことば」を軽んじる者たちから、どんなに「つまらない者」とさげすまれても、それで心を騒がせることはなかったのである。確かに多くの人が、目先の損得を考えている。この世で祝福されることがなくては、どんなに良い教えであっても、なかなか人の心は動かないもの。旧約聖書の時代も、新約聖書の時代も、そして二千年以上となる教会の歴史においても、この世の祝福や報いをめぐって、神の民は繰り返しふるわれ続けている、そんな現実がある。

 「つまらない者」と「さげすまれる」ことが続いても、それでも、私は「あなたの戒めを忘れてはいません」と言えるのは、「あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです」(142節)との確信によることであった。激しい苦難の中や、時には窮乏することがあっても、また人々の中傷や嘲りによって追い詰められても、じっと耐えているだけではなかった。顔を上げ、心は天を仰いでいたのである。唯一人、正しい方、「義なる方」がおられることを信じて止まなかった。「あなたの義は、永遠の義。」この言い方には、「あなたの義だけが、真の義」との強調がある。神の「義」を「永遠の義」と言うことによって、人が振りかざす「正義」や「義」が、容易く移り変ること、時に全く消え去ることを告げる。神の「みことば」だけが、決して変らないと。

3、それ故に、もう一度、「苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。しかしあなたの仰せは、私の喜びです」(143節)と、喜びの声を上げる。苦しみの中にあっても、私には喜びがありますと。果たして、私たちはどうだろうかと、問われるばかりである。今苦しみの真っ只中にあって、「しかしあなたの仰せは、私の喜びです」と言えるものだろうか。そのように考えるように・・・、そう考えるべき・・・と、どれだけ教えられ、勧められたとしても、それでできるようになるとは思えない。この詩篇の記者も、自分でそのようにできるとは考えていなかった。あくまでも「みことば」に頼り、神が私を生かしてくださることに、確かな望みを託すのであった。

 「あなたのさとしは、とこしえに義です。私に悟りを与えて、私を生かしてください。」(144節)先に「あなたの義は、永遠の義」と歌ったことを、再び「あなたのさとしは、とこしえの義です」と語って、神の「義」また「正義」だけが永遠に変らないもの、この「正しさ」、この「正義」に依り頼む者だけが、この地上にあって、揺れ動くことなく、正しく歩ませていただけると、心の底から信じたのである。実際、揺れ動かない「みことば」を持つ者は、この地上、この世にあって、どれだけ確かな歩みを約束されているのか、私たちはその確かさを十分に知り得ていないのかもしれない。それ程の苦難も、まだ経験していないからであろうか・・・。けれども、神ご自身は「永遠の義」をもって、私たちに臨んでいて下さる。この神に頼れるのは何と幸いであろうか。
(※マタイ6:33)

<結び> 神の「義」また「正義」について、「永遠の義」また「とこしえに義です」と言うのは、その永遠なること、不変なること、決して変らない、確かなものであることを表すためである。この世には不変のもの、永遠のものは何一つなく、唯神だけが、不変な方、無限にして永遠な方である。そして、その神の「みことば」は、私たち人間が頼るべき、「永遠の義」と言うに相応しいものなのである。

 主イエスは言われた。「天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)この滅びることのない「みことば」、この教えを頼りに、「私に悟りを与えて、私を生かしてください」と神を呼ぶこと、そうすることによって、私たちも確かな日々を歩むことができる。主イエスを心から信じて、その教えに聞き従う者として、地上の生涯を確かに歩ませていただこうではないか。