礼拝説教要旨(2010.07.25)
光が差し込み
(詩篇 119:129〜136)

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節) 第十四段落で、既にこのような告白に到達していたからか、その後の十五段落、十六段落は、心定まった者の訴えや願いが歌われていた。「あなたのしもべの幸いの保証人となってください」(122節)と祈るのは、神を私の「幸いの保証人」と信じているからであった。そして、「それゆえ私は、すべてのことについて、あなたのいましめを正しいとします」(128節)と、神の「みことば」に対する信頼は、一層揺るがないものとなっていたのである。

1、これに続く第十七段落は、「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」と、「みことば」の賛歌で始まる。(129〜130節)段落ごと、ヘブル語アルファベットの文字を文頭に並べるので、その文字によって使う言葉が制限されるが、この段落は「ぺー」で始まる「ペラーオート」(奇しい)、「ペータハ」(戸が開く)と、全節に「パ」行の音が響くことになる。「奇しい」という言葉は、神の奇蹟の御業ついて語る時(出エジプト15:11)、また「不思議」という神の名を指す時に(士師記13:18、イザヤ9:6)使われている。神の「さとし」を「奇しい」と言うのは、それが神からの特別なもの、特別に私に啓示して下さったものと、感謝をもって理解したからである。

 だからこそ「私のたましいはそれを守ります」と、最早揺るぎない姿勢を告白する。自分のことを省みるに、「みことば」によって、愚かでわきまえのない者の心が「パッ!」と明るく照らされたこと、「光が差し込み」、鈍い心に悟りを与えられたことを、感謝せずにはいられなかった。「みことば」をただ耳で聞くのではなく、心で聞き分けること、それが肝心なことであった。自分に都合のよいことだけを聞くのではなく、喜びの日も悲しみの日も、また順調な日も苦難の日も、その教えに聞き従うこと、それによって今があると知って、この人は、いよいよ神に信頼する思いを熱くしていたのである。

2、もちろん、今も尚、苦悩する日があり、敵対する者の虐げがなくなったわけではなかった。そこで強く祈り求めた。「私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。御名を愛する者たちのために あなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。」(131〜132節)雛鳥が親鳥に餌を求めるのに、口を大きく開けて待つ姿、必死に求めるその姿を思い描くことができる。今心が満たされることがなければ、待っているのは死、だから求めずにはおれないという熱心が、その求めをいよいよ切実なものとしていたのである。けれども、この人は「あなたが決めておられるように」と、節度を弁えることを決して忘れなかった。

 「私に御顔を向け、私をあわれんでください」と祈りつつ、「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください」(133節)とも祈っていた。自分がこの世を生きるためには、やはり「みことば」なしは、とても危ういことを知っていたからである。ここでの「罪」という言葉は、「悪」「邪悪」「空しいこと」を指し、また偶像をも表すものである。この世のあらゆる邪悪なこと、空しいこと、また、あらゆる偶像礼拝から守られるのは、ただ「みことば」によることと明言しているのである。自分が空しいことから離れていられるのは、自分で気づいてできることではなく、神が私を捉え、「みことば」によって支え、導いて下さるからであると、神の守りと導きを決して忘れることはなかった。

3、「私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。」(134〜135節)自らを省みればみる程に、自分の弱さ、いや無力さを悟らされていた。罪に誘う人の言葉は、何時如何なる時も巧みである。弱さに如何にも同情し、助けの手を差し伸べるが如く近づく者がある。虐げが激しくば、我慢することなど止め、心穏やかに過ごすのが良かろう・・・と、ついその気にさせられる誘いも激しいものである。だからこそ「私があなたの戒めを守れるようにしてください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし・・・」と願った。彼は、神の「御顔」が自分に向けれているなら、その時、この弱い自分は、神の御手に支えられ、強くされていると、本当の意味で心が安らいだのである。

 この人は「みことば」の奇しさに触れ、その「みことば」によって心を照らされ、この世の日々の如何なる時にも、「光が差し込」む幸いを得ていた。けれども、それで慢心することなく、一層神に頼る謙虚さを身に着けたのである。自分を見つめ、いよいよ神を頼ること、神に助けを求めることを忘れなかった。それと共に、なお心を頑なにして神に背く者たちのことを思う時、彼らのために涙する者となっていた。先には彼らに憤慨し、「激しい怒り」に包まれていたのが(53節)、今はその同じ人々のために、「私の目から涙が川のように流れます」(136節)と。神の教えを聞かない人々のために、執り成しの祈りをささげるまでに、心が広くされていた。背く者たちが、もし頑ななままであるなら、彼らの行く末は滅びである。その裁きの厳粛さに、この人の心は震え、涙を流していた。光が差し込んだ心に、確かな実が結んでいたのである。

<結び> 教会に集う私たちは、おそらく皆、それぞれに「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」との経験をした者である。聖書に触れ、「みことば」の示す教えに心を動かされ、信仰の道を歩み始めた。突然のように「光が差し込み」という人もいれば、じわじわと「光が差し込み」、ついに神の前にひれ伏すことになった人がいるに違いない。何よりも、「みことば」を通して「世の光」であるイエス・キリストに出会い、その「光」の内を歩む者とされたのである。(ヨハネ8:12)使徒パウロは、正しく眩しい光に照らされ、一時目が見えなくなる経験をして、復活のキリストを信じる者とされた。宗教改革時代のルターも、突如光に打たれて心を開かれたと言われる一方、カルヴァンはじわじわとその信仰が明らかにされた人と言われている。皆、光に照らされた者として、地上の生涯を生き抜いている。

 私たちもそれぞれに「みことば」によって、一層心を開かれ、「わきまえのない者に悟りを与えます」との真実な証しが導かれるなら、それこそ、「みことば」の奇しさ、不思議さを証しすることになる。自分を誇ることや高ぶることを止め、心を低くすることを身に着け、周りの人々に対して、真実な涙を流して祈る者となるなら、必ず、神が助けの手を差し伸べて下さるに違いない。困難の中にあっても、神は私たちと共におられ、必ず支え続けて下さるからである。敵対する者のためにも涙して祈ること、それはキリストに似る者に変えられることである。「みことば」によって、そこまで変えられることを経験させていただけるとは、何と奇しく、幸いなことであろうか。