パウロは、今日の聖書箇所で、福音は神様が与えられた真理であるという意味で、「福音の真理」という言葉を2度用いています(5、14節)。それとともにパウロは、「福音の真理」は、教会によって、また、信じる者によって保たれるべきことを教え、求めていないでしょうか。エルサレム教会、パウロたち、パウロ自身の実践と闘いを見つめたいと思います。
*
1、まず、パウロ、バルナバ、テトスたちの「福音の真理」を保つ闘いを見ます。
3-5節に記されている「にせ兄弟たち」との闘いです。彼らは、ユダヤ教・律法主義の考え方や生活慣習を強く残してキリスト教に改宗したユダヤ人たちです。彼らは、キリスト者であってもユダヤ人であれば当然のこと、ギリシャ人のような異邦人であってもユダヤ人の律法の慣習に従うべきであると主張し、それを強要し、イエス様の福音から引き離そうとしている人たちです。律法的慣習の代表的な要求は、「割礼を受けよ。」ということです。
ところで「律法」は、「十戒」にある「殺すな、姦淫するな、偽りに誓いを立てるな」のように神様が示された神様のみこころです。しかし、罪ある人間には、律法を行うことは出来ないばかりか、むしろ律法に、いつも罪をあばかれているのです。その罪は、イエス様の十字架で赦していただく以外に償いの道はありません。パウロが、「・・・律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)と言っている通りです。
パウロの闘いは、表面上は「割礼」を強いる者に対してのように見えますが、イエス様の十字架を必要とせず、無意味にする考え方の者たちとの闘いなのです(2:21)。
「にせ兄弟たち」は、パウロたちを再び罪の奴隷に落とそうとし、罪からの自由を奪ってしまう機会をうかがう者たちであったのです(4節)。ですから、テトスの割礼を阻止した背後には、パウロが、一時(ひととき)も妥協せず、一歩も退かずに「にせ兄弟たち」の誤りを厳しく指摘し、イエス様の十字架を懸命に説いた働きを読み取ることが出来ます。
こうしてパウロは、神様のみこころである律法の尊さをはっきり示すとともに、「福音の真理」を保つ闘いを勝ち抜いたのです(5節)。
「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。」(5節)という、パウロたちの「福音の真理」を保とうとする毅然とした姿勢を心に刻み、パウロに連なりたいと願う者です。
2、次に、エルサレムの教会がパウロに対して示した一連の行ない中に、「福音の真理」を保つための交わり・働きの生きた姿を見たいと思います。
パウロは、キリスト者を迫害した者でしたし、回心の後もエルサレムの教会や先輩の使徒たちとの交わりは、ごく限られたものでした。それにもかかわらず、エルサレムの教会とその指導者たちは、パウロを正しく理解し、パウロの思いや願いを上回ってパウロを受け入れたのでした。
(@)まず、使徒としてのパウロを受け入れました。ダマスコ途上の出来事(使徒の働き9:1−9)において、パウロが、復活のイエス様と出会い、復活の証人として立てられ、福音を宣べ伝えていること(2節)を評価しています。(A)「にせ兄弟たち」にそそのかされて、テトスに割礼を強制しようとする教会の中の動きを封じ込めました(3節)。さらに、福音の真理を保とうとするパウロを受け入れ、エルサレム教会の指導者たちは、パウロの福音理解に「何も加えることをしませんでした。」(4−6節)。さらに、(B)パウロの伝道の実績を認めています。とくに、割礼なき異邦人への使命を負った使徒パウロを理解しました(7,8節)。パウロは回心直後から伝道を開始しており、シリヤ、キリキヤ、アンテオケ地方を中心に働いています。さらに、先ほど触れました、「エルサレムの使徒会議」の前にした第一回目の伝道旅行(使徒の働き13:1−14:26)の実績を認めていると考えられます。
このようにして、エルサレムの教会とその指導者たちは、パウロのすべてを良く見て判断し、評価して、受け入れたのです。それは、回心前のパウロ、交わりの少なかったパウロに躓(つまず)くことなく、神様がパウロに現わされた「福音の真理」を決して見落とさず、むだにしないで保とうとする強い意志、まことの神を畏れる信仰に基づいていると言えるでしょう。
私たちも自分たちのこだわり・先入観をなくして、聖霊の導きを仰ぎ求めつつ、神が起こされたことなのか、人によることなのか、霊の出来事なのか、肉の出来事なのか、事実を見極めながら、「福音の真理」を保つための働きにあずかる者とされたいと願わされます。
3、さらに、パウロ自身による「福音の真理」を保つための働きについてです。
パウロが、アンテオケで先輩使徒ペテロを非難したことに、「福音の真理」を保つ闘いの現実を見たいのです。
パウロは、なぜかくも厳しく非難したのでしょうか。ペテロの行いのどこに罪があるのでしょうか。ペテロのしたことは、こういう意味があったからです。
(@)ユダヤ人キリスト者は、キリスト者となった異邦人であっても、その人たちと食事をすることは、汚れることだとして、異邦人を神から遠い者・汚れた者扱いにし続けています。ペテロは、このユダヤ人に与(くみ)しているからです(12節)。(A)ユダヤ教・律法主義たちは、自分自身の汚れを問題にせず(マタイ23:28参照)、人の「心を知っておられる神」(ルカ16:15)を恐れていません。このことをペテロは、見過ごしにしているのです。(B)ペテロは、自分が先輩使徒としての立場を自覚しない振る舞いをして、パウロの同労者であるバルナバにも悪い影響をもたらしたことです(13節)。さらに、(C)ペテロは、自分の出来ない事・自分がしていないことを異邦人に強いています(14節。マタイ23:3,4参照)。そして非難の基本にあったことは、ペテロが、福音に徹した生き方をせず、律法を行うことによって義とされようとするユダヤ教・律法主義を徹底して排除しなかったことです。
パウロがペテロを非難した出来事は、「福音の真理」を保つための止むにやまれない闘いでした(Tコリント9:19−22参照)。それは何のためでしょうか。イエス様の福音が、ユダヤ教の壁を打ち破り、異邦人、全世界に宣べ伝えられ、すべての人類が救われるためです。
私たちは、パウロほどの「福音の真理」を保つ働き・闘いの機会はないかも知れませんが、私たちは、神様のかたちに、真理にもとづいて(エペソ4:24参照)、真理に生きるように造られているのですから、パウロの次のことばに励ましを受けて、教会の「福音の真理」を保つ働きにあずかりながら、真理である福音のうちを歩んでまいりましょう。
「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」(Uコリント13:8。詩篇86:11参照)
|
|