礼拝説教要旨(2010.07.04) =海外宣教週間=
幸いの保証人
(詩篇 119:121〜128)

 「私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。」(113節)このように歌うのは、ただ自分の周りにいる「二心の者どもを憎みます」と言うのではなく、自戒しつつ、唯一人真実で正しい方、義なる神の前に、自分も立っていたからであった。その自戒は、祈りとなって次の段落に進む。「私は公正と義とを行いました。私をしいたげる者どもに私をゆだねないでください。」(121節)自分の善行を誇るのではなく、自分の欠けを知りつつ、人の手に陥ることなく、尚も「公正と義」の道を歩ませて下さい・・・と。

1、この第十六段落は、神に頼る者の心定まった祈り、動揺して祈るのとはやや趣を異にする訴えや願いが歌われる。冒頭の言葉は、一見自分を誇るようであるが、周りにいる悪人たちに押し潰されず、神を仰ぐ者として立たせられている感謝が込められている。どれだけ攻められても、「避け所」としての神がおられたからである。その幸いを、「あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者どもが私をしいたげないようにしてください」との祈りに込めた。(122節)この人には、生ける真の神という、絶対的な「保証人」がいた。不安と恐れの中からの祈りではなく、安心と喜びの中から、神に向かって「幸いの保証人となってください」と願っていたのである。

 神を私の「助け」と言うのに、前の段落では「隠れ場」「盾」と言い、ここでは「保証人」と言う。詩篇には、「岩」「救い」「やぐら」「避け所」等の、何れも「身を隠す場所」、そこにいると安心できる場所を表す言葉を使って、神の「助け」を言い表わすことが多く見られる。そのような安心できる場所として、親鳥の翼の陰に守られる雛鳥のことも語られる。(詩篇61:4、63:7、91:4等々)正しく「幸いの保証人」として神がおられること、そのことの確かさを、聖書は繰り返し語り続けている。それ故に、「私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばを慕って絶え入るばかりです」(123節)と、この世で、この地上でどれ程の困難があろうと、ただ「あなたの救いと、あなたの義のことば」を慕い求めますと願う。一晩中泣きはらした目を思い描いていたのか、それとも目を閉じて、ただ神だけを待とうとしていたのか・・・。

2、「あなたの恵みによってあなたのしもべをあしらってください。私にあなたのおきてを教えてください。私はあなたのしもべです。あなたの悟りを授けてください。そうすれば私は、あなたのさとしを知るでしょう。」(124〜125節) 神に対する自分を「しもべ」として、ここでは一層身を低くしている。ともすると、自分を「しもべ」と認めつつも、神を私の「幸いの保証人」として、私に幸いをもたらす限り、この神を信じようとするのが人間である。全ての良いことは神から、全ての悪いことは悪魔からとばかり、物事を余りにも単純化するなら、神を人間に仕えさせ、私に仕えさせようとすることになる。私はあくまでも「あなたのしもべ」であり、「あなたの恵みによって」生かされていることを認めて、「あなたのおきて」を教え、「あなたの悟り」を授けて下さいと祈る姿勢、その遜りを欠いてはならないのである。

 常に一歩退いて、神が事を成して下さるのを待つので、また自分では何も成し得ないと悟るので、「今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのおしえを破りました」と、神を待ち望んだ。実際に祈る時、「神よ。急いで下さい」と、神の出動を待ちわびることが多いのが私たち人間である。「急いで下さい。早くして下さい」「どうして、何故?」と、心を騒がせてばかりしている。けれども、はやる気持ちを鎮めて、「今こそ主が事をなさる時です」と祈るなら、神の絶大な力、そして測り知れない知恵に任せることが導かれる。敵対している者たちを恐れる自分のためにではなく、彼らに報いることは、ただ神のお心一つと納得することによって、「それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します」と、確かな信仰に達するのである。(126〜127節)

3、「金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。」先には「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(103節)と歌っていた。どんな物にも心を動かされず、惑わされず、私が心の底から愛し、慕うのは「みことば」ですと、ここでも言い切っている。そして「それゆえ私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます」(128節)と結ぶ。「すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします」とする、この正しさ、そして潔さは、神を私の「幸いの保証人」とする者だけが享受する。人間が振りかざす正しさは、必ず揺らぎ、必ず移り変わる。善悪も正邪も時に入れ替わる。だからこそ、揺るがない「みことば」を愛し、「みことば」に背く偽りを憎むこと、これを選び取るのは、私たちの務めなのである。

 この世の生活において、誰に「保証人」になってもらうのか、一生の間に何度かそれを考えねばならないことがある。世間の常識として、安易に「連帯保証人」にならないよう気をつけなさいとも言われる。要は、「保証人」の資格のないまま保証人になってはならず、資格要件のない人に保証人になってもらっては危ないのである。神に造られた人間が、誰に「保証人」となってもらうのか、それは唯一人、人間を造られた神だけが、本当の意味で「保証人」になる資格がある、ということである。この詩篇の記者は、神を私の「幸いの保証人」として依り頼んだ。私を決してお見捨てになることはないと、心から信じて神を頼った。神はいつも、どこにあっても、ご自分の所に来る者を、決して退けることはなさらないからである。

<結び> それにしても私たち人間は、何かしらに頼り、日々の生活において、安心できることを必死に追い求めているのではないだろうか。健康のため、老後の生活のため、今日の安心のため、この世の事柄のほとんどが、何か安心を得て、他の人よりも先を行っているかどうか、そんなことばかりに心を向けさせられている。そこに果たして幸いがあるのだろうか。

 立ち止まって、神がおられること、神が救い主を遣わし、救い主キリストのもとに来なさいと、いつも招いておられることに気づこうではないか。神の招きを心から感謝しようではないか。真の神が備えて下さっている安心こそ、確かな幸いである。この世界がどれだけ変ったとしても変らないもの、時代が変り、価値観が入れ替わったとしても揺るがないものである。私たち人間がどれだけ無力で、どれだけ弱くても、確かな守りを与えて下さるものである。それこそ、雛鳥が親鳥の翼の陰で守られるように守られる。※ヨハネ14:27、16:33

 主イエスは、神の守りと救いへの招きは、「めんどりがひなを翼の下にかばうように」してなされていたと語っておられる。(ルカ13:34)今もまた神の救いへの招きと神の御手の守りは、同じように万全である。だからこそ、私たちは感謝と喜びをもって、神の御手の守りの中にある幸いを受けることができる。私たちも、「あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者どもが私をしいたげることのないようにしてください。・・・あなたの恵みによってあなたのしもべをあしらってください。私にあなたのおきてを教えてください」と、心を込めて祈らせていただこうではないか。