礼拝説教要旨(2010.06.27) =教会学校月間=
二心の者どもを憎みます
(詩篇 119:113〜120)

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と語り、「私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終りまでも」と結ばれた第十四段落に続き、第十五段落の冒頭は、神に頼る者の潔い決意が表明される。「私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。」(113節)この世でどれだけ苦しみ悩んだとしも、助けは神にのみある。それ以外に望みはないと、はっきりと悟るようになっていたからである。

1、「二心の者ども」、それは心が、木の枝があちらこちらに分かれるように分かれた者、心の割れた者を指す。確かに、木の枝が分かれ分かれして入り組んでしまうと、それらは剪定しなければならず、そのように悪しき思いが心から湧き出ることを暗示しているようである。右にも振れ、左にも振れして、結局はどちらにも定まらず、決して神に向かうことのない人は多い。神に頼る者を嘲り、攻撃して止まない者だけでなく、しばらくは近づき、親しげにしていても、やがて去って行く、そんな者たちもいて、いよいよ神にのみ信頼することが確かな力と、心は定まったのである。

 そして、生ける真の神の元に「隠れ場」を見出していた。「あなたは私の隠れ場、私の盾。私は、あなたのみことばを待ち望みます。」(114節)一人孤独に陥る時、誰かが近づいてくれること、また何か慰めの言葉を掛けてくれることを期待するものである。そんな自分を見透かすように、「二心の者どもを憎みます」と言い切り、「あなたのみおしえを愛します」「あなたのみことばを待ち望みます」と、自分に言い聞かせもしていた。だから、「悪を行う者どもよ。私から離れて行け。私は、わが神の仰せを守る」(115節)と、甘い言葉に誘われることのないよう、自分を戒めていた。自分の弱さや愚かさを知る者は、決して強がることはしない。一層神の助けを求め、神の守りと導きを祈り求めるのである。「みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。」(116節)

2、神の助けを求める祈りは続く。「私をささえてください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう。」(117節)神を信じる信仰が保たれるのは、信じるその人の信仰によるのだろうか。ついつい私たちは、そのように錯覚するが、信仰が保たれるのは、全く神によることである。神が私たちを支えて下さること、私たちを救って下さること、そのことを信じて、私たちが神の「みことば」に頼ること、それによって信仰は保たれるのである。神がご自分の民を決して見捨てないと約束されたことは、主イエスに受け継がれ、私たちはその約束を信じて、救いの確信が与えられるのである。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。・・・わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:28〜30)

 神が約束されたことを疑うなら、また「みことば」を信頼することがないならどうなるのか。それは「いのち」の道から逸れることになる。神の祝福から遠ざかることである。「あなたは、あなたのおきてから迷い出る者をみな卑しめられます。彼らの欺きは、偽りごとだからです。あなたは、地上のすべての悪者を金かすのように、取り除かれます。それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。」(118〜119節)神に信頼することなく、自分の知恵と力に頼る者は、神が示しておられる道から「迷い出る者」であって、神によって卑しめられ、退けられる。どんなに人が誉めたとしても、その成すことは「欺き」であって「偽りごと」である。何かが生み出されていても、精錬されて「金かす」として取り除かれる。神の裁きは厳粛で、決して過ることはない。

3、こうして神の裁きに思い至ると、その厳粛さに自らも震える思いがしていた。「私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。私はあなたのさばきを恐れています。」(120節)この詩篇の記者は、自らは「みことば」に立つことを選び取り、「あなたのみおしえを愛します」と言い、そして「二心の者どもを憎みます」と言えても、自分自身も、神の前に「欺き」や「偽りごと」は、必ず見抜かれていることを悟っていた。自分の罪や過ちを隠すことはできなかった。それ故に、毛が逆立つように「震え」、恐ろしさに身をすくめるのである。心は定まって、迷うことはなくなっていたが、自らを省みることにおいて、益々真剣になっていた。神の前には、いよいよ心を低くすること、これなしに、人が正しく生きる道はないと。

 「私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。」きっぱりと何を憎み、何を愛するのかを明言したように、動揺する心は収まり、自分の生き方は、もうこれ以上揺れないことを願っていた。けれども、二心の者が、そこにもあそこにもいて、その彼らを「憎む」と言うだけでなく、自分は果たしてどうであるのか、心の底から、神を「愛している」か、自らを問うことを忘れなかった。自分にも「二心」のある事実、この落し穴は残念ながら、全ての人が心すべきことである。心を尽くして神を愛すること、それは分っていても、それでも尚、心が揺らぐのが、この世を生きる神の民の現実である。「あなたは私の隠れ場、私の盾、私は、あなたのみことばを待ち望みます。」この祈り、この願いを繰り返すことによって、神の民、聖徒たちは、この世にあって確かな歩みが導かれるのである。

<結び> 「二心」ということでは、主イエスの教え、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」との言葉が、私たちの心に響いてくるのではないか。主イエスは、「神にも仕え、また富にも仕えることはできません」(マタイ6:24)と明言された。また新約聖書では、疑いながら神に願う人は、「二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」とも言われている。(ヤコブ1:8)心が散りぢりなって分かれてしまうと、もう神への信頼など、どこかへ吹っ飛んでしまうのが、私たち人間の現実だからである。

 けれども、「一心」に神に向くこと、ひたすらに神を愛し、「みことば」に従うこと、「みことばを待ち望み」、「みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください」と祈ること、それが私たちの力となり、救いとなることを、聖書は一貫して教えている。それは、全ての人が心を低くして神を恐れるように、神が遣わされた救い主を信じるようにとの、救いへの確かな招きに他ならない。神は御子イエス・キリストを遣わして下さり、キリストは十字架でいのちを捨て、罪の代価を支払って下さった。そして、よみがえって今も生きておられ、聖霊によって、私たちの心の内に住まれ、私たちを内側から強め、励まし、支えて下さっているのである。この方を信じ、この方に支えられ、心を迷わされることなく、この地上の日々を歩み、天の御国への旅を続けさせていただきたいものである。