礼拝説教要旨(2010.06.20) =教会学校月間=
人間によらず、神によって
(ガラテヤ 1:11〜24)
説教者:高橋善樹教師試補

 パウロが、自分が受けた福音、自分が宣べ伝えた福音、自分が使徒であることについて語るとき、それらはすべて人間によらず、神によっていることであり、神様を讃えることが基本にありました。そして、パウロのたましいを常に目覚めさせ、「人間によらず、神によって」の思いに集中させていたのは、復活のイエス様がパウロに出会ってくださった、“回心と召命”の出来事*があったからでした。(*:使徒の働き9:1-20,22:3-21,26:9-18)
 今日の聖書箇所とパウロが回心し、使徒とされていく過程との関連から、3つのことを学び、今日、福音信仰に生きる私たちもまた人間によらず、神によっていることを確かなものにされたいと思います。
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1、まず、パウロが受けた福音についてです。「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。」(12節)と言っていますが、パウロが使徒となり、福音を宣べ伝える者となったのは、まずパウロ自身が、福音を受け、ユダヤ教の律法主義からイエス様の福音へ回心したからです。
 十字架に死なれたイエス様は、ダマスコへの道の途上でパウロに現れ、ご自分が、復活された事実を明らかにされました。(Tコリ15:8)。この十字架と復活、福音の出来事をパウロは、「イエス・キリストの啓示によって受けた」(12節)と言っていますが、「啓示」というのは、イエス様がどういうお方であるのかが、覆いを取られてはっきり現わされたことです。“終わりの時”(Tペテロ1:20)を覚えさせられる重い言葉です。
 十字架で死んだ、あのナザレのイエスが、よみがえって、今、自分に現われてくださっている。パウロは、イエス様の存在とその全生涯は、救い主・キリストとして遣わされた神の子としての出来事であることを啓示されたのでした。パウロは、この十字架と復活のイエス様によって、この福音によって回心させられ、救われたのです。
 さらにパウロは、「神は愛である」(Tヨハネ4:8、16)ことを啓示されています。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか・・・・私は、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒の働き9:4,5)。イエス様は、信徒たちへの迫害をご自分に対する迫害とされています。この中に信じる者をお守りになるイエス様の愛の真実が明らかにされたからです。パウロは、自分もこの愛の中にあることを知り、神の愛の啓示を受けたのです。(ローマ5:8)
 パウロの回心の出来事は、復活のイエス様からの一方的な啓示によるものであり、人から受けたり、教えられたものではないので、私たちがイエス様を信じ、受洗した過程とは違うところもあるのですが、霊的には私たちも人間によらず、神によって信仰が与えられ、福音に生かされていることを改めて感謝を持って覚えてまいりたいと思います。

2、次に、パウロが宣べ伝えた福音についてです。「私が宣べ伝えた福音は、人間による
ものではありません。」(11節)と言っています。パウロの宣べ伝えた福音もまたイエス様から啓示され、パウロに託されたものでした。
 先ほど、16〜19節で触れましたように、先輩の使徒たちや、教会が認めた教理からではなく、パウロが、回心においてイエス様から啓示された福音でした。このことについては、復活のイエス様に出会って目が見えなくなったパウロを世話した、ダマスコのアナニヤという信仰者が、パウロに対して、こう言ったとパウロ自身が証言しています。
 「彼はこう言いました。『私たちの父祖たちの神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。」(使徒の働き22:14,15)。
 神様は、イエス様を通してパウロにみこころを知らせなさいました。それはパウロが、「イエスは、神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒の働き9:20)ことによく現われています。神様は、みこころとしてパウロに、イエス様の御名、そのご本質は、「神の子である」ことを啓示されたのです。パウロは、召されてこの啓示を福音として宣べ伝えたのでした。
 ですから、パウロには、たとえば、ローマ書で宣べ伝えているような、福音の核心を明らかにすることばが、この時すでに与えられているでしょうか。こうあります。
 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(4:25)パウロがこのようにして啓示された福音は、聖書のみことばとして継承され、私たちの福音信仰につながっています。このことを喜びを持って受け入れたいと思います。

3、さらにパウロが、使徒とされたことについてです。パウロは、すでにこの手紙の冒頭でこう書き出しています。「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、・・・・父なる神によったのです。」(1:1)。 
 パウロがこう言うのは、人間には考えられない、神様のわざとしか言いようのないような過程を経て、使徒となったからです。具体的な事実は、こういうことです。
 キリスト者を徹底して迫害したものがイエス様を命をかけて宣べ伝える者とされ、使徒の先輩がおり、教会もあるのに自分に啓示された福音をそのまま宣べ伝えることを良しとされ、律法に深く通じ、ユダヤ教に熱心な者が異邦人に遣わされている(使徒の働き22:21)という事実があるからです。パウロは、不思議と驚きとを覚えながら、それゆえに人間によらず、神によっているのだと語っているのです。
 
 私たちは、パウロのような大逆転の過程を経てイエス様を信じ、イエス様を証し続けている者ではないかもしれませんが、よくふり返ってみますと、小さくはあっても不思議と驚きの連続ではないでしょうか。人間によらず、神によって、と言う以外には言いようのないことに囲まれ、その中を歩み続けて今日があり、これからもそうではないでしょうか。ですから、イエス様を信じ、証し続けることは、私たちにとってもまた人間によらず、人間を超えた霊なる神様の力に支えられ、導かれているのです。このことを改めて信じ、ここに留まり、平安を得てまいりたいのです。
 さらに、私たちは、神様の力を覚えずに人間によることを見てしまいがちですが、神様は、「幼子の知恵を進ませ、成長させてくださる」(ルカ2:52)ように、私たちの信仰を育(はぐく)んでくださることを教会学校月間を覚えつつ、ここに望みをおきたいのです。この望みに平安を覚えながら信仰の生涯を歩みたいと願う者です。
 
                                    以上