「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節) 詩篇119篇と聞けば、この節を思い出す人が多いのではないか。それ程この一節は、119篇全体の主題をよく言い表わしている。前の段落で、「みことば」の慕わしさを歌った流れが、この節に集約するかのように。しかしこの段落は、生きる現実の厳しさに引き戻され、この世にあって生きるには、どんなにか神の教えと導きが必要であるか、切々と神の助けを待ち望むことになる。
1、ところで、この世での生活、また地上での日々と言える、私たち人間の一生は、「旅」に喩えられる。そして神の民、神を父と仰ぐ者にとって、この地上の旅は、天の御国に繋がる。そこに至る「道」は、果たして平坦なものなのか、険しいものなのか。また「時」は昼なのか、夜なのか。夜ならば、どれ位の暗さなのか・・・。確かに人の一生には、晴れの日があり、雨の日があり、また嵐の日がある。無我夢中の日々もあるに違いない。もし自分には、それ程の苦労はないすれば、それは神のあわれみによる。神の確かな助けと守りがあって、人は生かされている、そのような「旅」をしているのである。
この詩篇の記者は、行く先は天の御国と分っていても、この地上の旅には苦難があり、行く道は険しく、時は夜、それも闇夜のようであった。一人歩むその道は、時に寂しく、崩れそうになった。けれども、そのようにして歩む日々、「みことば」が確かな光であった。先行きが分らなくなる時、神のことばを頼った。迷う時こそ、立ち止まって、神の教えに耳を傾けた。そのようにして、「みことば」によって慰められ、励まされ、力を得ていたのである。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」 人が生きるために、「みことば」は大切な指針、道しるべとして、決して欠いてはならないものである。仮に明るい昼間を生きているとしても、「みことば」の光なしには、闇夜を行くように危ういもの、それが神に造られた人間の一生なのである。
2、だからこそ、「私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを」(106節)と、神の教えに従うこと、その教えを行うことを追い求めたのである。「あなたの義のさばきを守ることを」求め、それを果したと言うのは、「みことば」を聞いて、日々それを口ずさんだとしても、教えに従って生きること、その教えを行うことがなかったなら、自分の生き方が全く虚しくなるのを知っていたからである。「みことば」を守り切ること、神の教えに完全に叶うことは、人間には不可能である。だからと言って、「みことば」を知っています、完全に覚えています、人に教えることもできます・・・に止まっているとすれば、それは大いに問題である。その教えを実際に行うこと、果たすことを忘れてはならない。神が助け導いてくださるからこそ、「果たしてきました」と言い得ることもまた、大切な視点なのである。
私たちの信仰が口先だけのものでなく、行いの伴うものであるか、そのことが問われている。表面的にただ神を信じていると、神に助けを求めても、なかなか答えがないと、それでも「みことばを守ります」とは祈れなくなるものである。苦難が去ることなく、ますます激しくなると、神を信じていて何がよいものか・・・と、信仰を捨てることにもなる。けれども、この人は「私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください」(107節)と、尚も祈り続けている。それは、苦難の日にこそ、「みことば」が助けとなった事実を、決して忘れなかったからである。人の助けや言葉が、どれだけ虚しく、小さなものかを知ったのである。人にではなく、神に頼ることの確かさ、この力強さを知る者は、決して揺らぐことはない。
3、「主よ。みことばのとおりに私を生かしてください」と願ったので、周りはどうであれ、たとえ目の前の状況は変らずとも、「どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください」と祈り、もっと「みことば」を教えてくださいと願った。(108節)状況は切実で、世の多くの人からの、「神に頼って何の益があるのか」、「神の助けがあるなら、今見せて見よ・・・」という、嘲りが聞こえていたに違いなかった。それでも、「私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。悪者は私に対してわなを設けました。しかし私はあなたの戒めから迷い出ませんでした」(109〜110節)と、「みことば」への信頼、生ける神への信頼を貫こうとした。それは様々な苦難を経たからこその確信であった。また自分の限界を知っての心境であった。
「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりととして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」(111節)この地上で、何を受け継ぐのを喜びとしているのか、私たちも大いに問われる。多くの人が富や名声を追い求め、財を残し、それを子に受け継いでもらおうとする。その前に大抵の人は、先祖からの物を一度は当てにして、やがて自分の家には当てにする程の物はないことに気づくものである。それでも懲りずに、自分を奮い立たせたり、人に媚びたりと、自らの強欲さに気づかされるのではないか。「あなたのさとし」、すなわち「みことば」を「永遠のゆずりとして受け継ぎました」と告白する納得、これを私たちも倣いたいものである。「みことば」を受け継ぐとは、神の約束を信じること、その極みは主イエスを信じること、そして主イエスを信じる者に、「永遠のいのち」が約束されているからである。
<結び> 「私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終りまでも。」(112節)この段落の冒頭で、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と歌ったこの人は、「あなたのおきてを行うことに、心を傾けます」と、きっぱりと神の前に約束して、この段落を結んだ。自らの決意表明をしたのである。「みことば」を「行うこと」に、「心を傾けます」と。しかも、「いつまでも、終りまでも。」
私たちは、「信仰」を心の内側のことに、押し止める傾向がある。そのようにして、先ずは「聞くもの」である「みことば」を、よく「聞く」ものの、聞くだけで、「行い」の伴わないままとなることがある。よく「読み」、知識を蓄え、人に教えられるまで「みことば」を語ることができ、朝に夕に口ずさむまでに、「みことば」に親しんでいても、それでも「みことば」を行っていないとしたら、それは何を意味するのだろうか。
「みことば」は、確かに私たちに励ましを与えてくれる。そして、確かな生き方を教えてくれる。この世にあって、どのように生きるのか、その道を示してくれる「みことば」として、私たちは、どの「みことば」を心に留めているだろうか。主イエスが語られた教え、律法の要約として語られた教えをを覚えたい。心を尽くして神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛することである。(マタイ22:34〜40)この教えを「知っています」ではなく、「行うことに、心を傾けます。いつまでも、終りまでも」と、心から語って、それを実行することを祈り求めたい。神は聖霊を私たちの内に宿らせて下さっている。その導きを信じて、「みことば」を行う者となれるように。主イエスは、弟子たちが教えを聞いたなら、それを行う者となるよう願っておられるからである。(マタイ7:24〜27)
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