「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています」と、「みことば」の永遠性、普遍性に目を留め、他方、「私は、すべての全きものにも、終りのあるのを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです」と、この地上の事柄の全てには終りがあることを悟った段落に続いて、第十三段落の冒頭は、「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」(97節)という、感嘆の歌となった。ヘブル語アルファベット「メーム」で始まる「マー」、「どんなにか、なんと」との感嘆詞が、この段落を貫くように・・・。
1、前の段落では、心は静まりつつあっても、尚「どうか私をお救いください。・・・悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せしています」と、助けを呼ぶ祈りが込められていた。(94〜95節)けれども、この段落では、願い事には一切触れられていない。神のことばを「愛します」、それは私を「賢くします」、「蜜よりも私の口に甘いのです」と、満ち足りた気持ちが溢れ出ている。「みことば」を拠り所とする者の幸いを思い、神のことばを愛するとは神を愛することに他ならず、神に愛されているからこそ、神を愛する喜びがあると、感謝せずにはいられなかったからである。
その感謝と喜びは、次のように歌われる。「あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。」(98〜100節) 一見、自分を誉め、自分を誇っているように感じられる。しかし、単純な比較ではなく、神に信頼して支えられた日々を思い返していた。「敵」の策略に翻弄され、自分の無能さを思い知らされても、神のことばによって奮い立つことができた。師から多くの教えを聞いたものの、自分が神のことばを拠り所とすることが実際の力となった。若さ故の失敗も数多くあったが、神の戒めを守ることが何よりも大切と学ばされたからである。
2、「私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。私はあなたの定めから離れませんでした。それは、あなたが私を教えられたからです。」(101〜102節)この世には、誰もが驚く「偉人」「賢人」がいる。神に敵対する人が皆、「悪人」という訳ではない。有能な教師がいて、経験豊富な老人が若者に対して目を光らせている・・・という現実がある。けれども、神に造られた人間にとって、本当の賢さや本当の正しさは、時に、世間の常識とはかけ離れるということを知らなければならない。人が見ているからというのではなく、神が見ておられるから、また皆がしているからと近づくのではなく、神の戒めだからとの理由で、「悪の道」から遠ざかること、これによって人は、自分でも驚く生き方が可能となるのである。
私たち人間の堕落した本性は、自分がどれ程邪悪で罪深いか、極力過小に受け留めたいと願うものである。「私はそれ程悪くはない」「あんな失敗はしない・・・」と、自分の罪深さについてはなかなか認めようとはしない。しかし、日々に多くの誘惑に迫られ、内に潜む思いは制御しにくいものであるのを、誰もが認めるのではないだろうか。立ち止まって見つめるなら、私たちは決して清くはない自分を思い知らされる。私たちが犯罪に走ることなく、悪に足を踏み入れることなく今あるのは、神のことばに心を照らされ、戒めによって踏み止まらせられているからである。神が聖霊を送って、私たちを守り、神の教えに耳を傾けさせて下さることがなかったら、とっくに道を誤っている。「みことば」と神の助けがなかったなら、私たちの人間の歩みは、大いに危ういものなのである。(※詩篇94:17)
3、こうして「みことば」の確かさを知る者は、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」と歌う。(103節) 神のことばは自分で読むものではなく、朗読されるのを聞くものであった。それを「上あご」と「口」に「甘い」と歌うのは、一体何を表そうとしたのだろうか。語られた「みととば」を心で捉え、口に出して覚え、それを忘れないようにした、朝に夕に「口ずさむ」ことをした・・・、そんな味わい方をしていたと想像できる。(※詩篇1:1〜3、申命記6:3〜9)この人は、きっと幼い時から「みことば」に親しみ、これを「口ずさみ」して歩んでいたのである。苦しみに遭って思い返し、迷う時に口ずさみ、弱さを覚える時、口ずさむ「みことば」によって力を得ていたのである。(※詩篇19:9〜11)
「私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。」(104節) この地上の日々の歩みを思うと、迷うことばかり・・・と多くの人が言うに違いない。何が正しく、何が偽りであるか、何が善で、何が悪か、見分けるのはとても難しい。知識が増え、経験を積めば判断が容易くなるのだろうか。そうではなく、「私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります」と、この人は言い得た。知識や経験ではなく、神の戒め、「みことば」が確かな規準なので、迷うことなく「偽りの道をことごとく憎みます」と、言い切ったのである。自分勝手に、「私には、わきまえがあります」と言い張るのではない。神のことばがあるので、それで私は揺るぎませんと落ち着いていた。
<結び> 箴言に、「主を恐れることは知識の初めである」と記されている。(1:7) また伝道者の書では、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」と。(12:13〜14) 人の本分は、神を恐れること、これが全てと聖書は繰り返している。聖書は私たちに問い掛けている。価値観の多様化したこの時代、行く末を見失ったかのように、多くの不条理が支配する社会になってしまったこの世にあって、はっきりと「聖書」、「みことば」に立っているかどうかを。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」と言い得るまでに、「みことば」を味わっているだろうか。(※そうは言えない自分に気づかされる。)
けれども、思いを新たに、自分と自分の周りの人々のために、また後の世代の人々のためにと考えるなら、これ程確かな「みことば」を大切にし、これを分かち合うためにこそ、教会が用いられることを願わずにはおられない。「みことば」を心に蓄え、折に触れて口ずさむまでに、これに従う歩みが身に着くよう祈ろうではないか。「教会学校月間」にあたって、教会に連なる子どもたちが、揺るぎない拠り所を得ることができるように、その拠り所である「みことば」を自分のものとし、豊かな人生を歩めるように、そんな祈りをも導かれたいものである。
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