礼拝説教要旨(2010.05.30)
私を生かして下さる神
(詩篇 119:89〜96)

 第十一段落を、「あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります」と、祈りによって結んだこの詩篇の記者は、神を仰ぎ、「みことば」の確かさに目を留めていた。「ことば」「さとし」「仰せ」・・・等々、いろいろ言い換えて歌いつつ、神ご自身と神のことばの揺るぎなさこそ、私の拠り所であると思い知っていた。この地上では苦しみや痛みがあり、耐え難い不条理があったとしても、「主よ。あなたのことばは、天において定まっています」と、心から歌い次ぐことになった。(89節)

1、激しく動揺していた段落から、この第十二段落はまた一転、落ち着きを見せている。「この地上」における迫害が去ったわけではなく、事態は何も変らなくても(95節)、天を見上げ、「天において定まっている」神の「ことば」を思うことができた。「みことば」の永遠性また普遍性、すなわち、永遠から永遠までも、神の「ことば」は決して変らないことに思い至ったからである。神がその御口のことばによって、この天と地を造られたこと、そこに住む全ての生き物を造り、そして最後に人間を、ご自身の「かたち」に似せて造られたことなどを思い返してのことであった。(89〜91節)

 「この地上」(87節)のことは、およそ不確かで、揺れ動くことばかり・・・と嘆く人は多い。神はいない、神は死んだと、無神論が多くの人の心を占めている。この世界は、果たして無目的のものなのか・・・? 人はそれぞれ自分で目的を見つけ、また目標を立てて進む他に道はないのだろうか。しかし、造り主を知る者は、天に定まる神の「ことば」を信じて、「あなたが地を据えたので、地は堅く立っています」と言い切る。更に「それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです」と明解である。天と地は神によって造られ、堅く揺るがず、神のみ手の支配は、全ての被造物に及んでいる。心を騒がせることは何一つなし・・・と。

2、神のことばが、永遠より天において定まっていて、神の真実が代々変わらないことにより、どれだけ安心できることか、多く人は気づかずに過ごしている。確かに予期しない時に自然災害が襲い、地震や洪水に恐れ慄くこと度々である。けれども、尚天体は狂いなくて運行し、夕となり、また朝を迎える。宇宙飛行士が飛び立ち、また帰還するのが当り前のようになり、つい先ごろも金星探査のロケットが打ち上げられた。それらの背後に、正確に運行しているこの天地があることを見落とすことはできない。「光があれ」との神のことばによって、「光があった。」大空も海も、地も、太陽も月も、全ての生き物も、神のことばによって造られた。(創世記1:1〜25) 神のことばだけが、とこしえから、天において定まり、揺るがないものなのである。

 こうして、この世界の創造者、造り主なる神がおられると信じる者は、「もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったなら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです」と歌う。(92〜93節)神がおられ、神の教えが私を励まして下さったので、私は今生きています、神の愛と励ましは私には無くてならないものでした・・・と。「私を生かして下さる神」がおられると信じる人の歩みは、決して揺るがないものとなる。(※実際に、聖書によって力を得ましたとの証言は尽きない。また、もし無人島に、ただ一冊を持って行くことが許されるとすると、それは「聖書」と言う人が多い・・・と。辛い時、苦悩する時、そんな時、詩篇が大いに慰めとなる経験を、私自身思い出すことができる。)

3、神が私を生かして下さった、今も生かして下さっていると、心から信じて喜ぶので、この人は迷うことはない。「私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私はあなたの戒めを、求めています。悪者どもは、私を滅ぼそうと、待ち伏せています。しかし私はあなたのさとしを聞き取ります」と祈り続ける。(94〜95節)神に背く者は、神に頼る者の平静さを目の敵とする。一層激しく敵対し、穴を掘って待ち伏せされると、神に頼る者の心も穏やかではいられない。けれども神の助けを待ち望む者には、神がみ手を差し伸べて下さる。神は「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこででも、あなたとともにあるからである」と、確かに約束されたから。(ヨシュア1:9)

 そして、主イエスが語っておられる。天の父がご自身の民に「よくしてくださらないわけがありましょうか」と。(マタイ6:30) だからこそ「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とも。(6:33)ペテロも、「あなたがたの思い煩いを、神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と語って、聖徒たちを励ましている。(ペテロ第一5:7) この詩篇の記者は、神の手の中にある平安、安心を悟っていた。そしてこの段落を「私は、すべての全きものにも、終りのあることを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです」結ぶ。神に頼る者の守りは万全である。この地上の全てのことには終りがあるとしても、神の「ことば」は無限であり、永遠である。その広がりの中にある幸いは何ものにも優るからである。(96節)

<結び> この詩篇119篇は、人生経験の豊かな一人の人の生涯がちりばめられた、賛美と祈り、また喜びや嘆きの歌である。ヘブル語のアルファベットに添いながら、一まとまりの段落ごと歌い進まれている。ほぼ真ん中に差し掛かり、激しい苦悩から抜け出すかのように、穏やかな心が迸り出始めた。「私は、すべての全きものにも、終りのあることを見ました。」「全きもの」とは、「正しいもの」という意味ではなく、「この地上の事柄の全て」を表そうとしている。(※新共同訳:「何事にも終りと果てがあるのをわたしは見ます。」)世の中の不条理も含めて、この世の事柄には終わりのあること、そして、人の一生もどのようなものなのかを悟り得た、そんな境地に達していたのかもしれない。他方、神のことばの測り知れなさを実感し、この神に頼る者の幸いを心から感謝する。「しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。」私を生かして下さる神がおられると信じる者には、無限にして永遠の広がりのある神の守りがあると、喜びの叫びが込められていたのである。

 私たちはどのように神を信じ、また自分の一生を捉えているだろうか。私を造られた神がおられる、そして私を生かして下さる神がおられると、心から信じているだろうか。神は「あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるから」と約束して下さっている。この神の教えを喜びとし、その仰せの広さに心を向かわせる者としていただきたい。その時、私たちの心も広くされ、苦難に遭っても堅くされ、この地上にあって強くされるに違いない。(※32節)