今日は、2000年前の五旬節にイエス様を信じるすべての人に聖霊が初めて降った出来事を覚える礼拝です。聖霊の存在とその力、お働きをあらためて3つの点から覚え、聖霊を信じる信仰と聖霊による生活の歩みを確かにされたいと思います。
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1、聖霊の力、お働きについて、私たちがまず注目したいのは、
@弟子たちが、「神の大いなるわざ」を他国のことばで話し出したことです。「神の大いなるわざ」(11節)とは、イエス様に現わされた神様のご栄光、とくにイエス様は神の子であり、十字架にかかり復活され、神の右に着かれ、聖霊を注いでくださったことです。
イエス様の御名を正しく、しかも他国のことばで話したこと。この行動は、弟子たちが、全世界に福音を宣べ伝えるために、他国の人の隣人となって、隣人を愛することの現れです。(Tコリント9:19〜23) 聖霊の力、お働きによるものです。
A次に、聖霊は、弟子たちを世の只中へと遣(おく)り出したことです。聖霊が降った時、「天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。」
(2節)のでしたが、この響きは、この家の中だけにとどまりませんでした。家の外にも響きわたるところとなり、「この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た」(6節)のでした。そして人々は、他国のことばで話す弟子たちの奇跡に出会うことになるのです。聖霊は、こういうかたちで人々が、イエス様の福音に注目するようにされるとともに、「一つ所に集まっていた」弟子たちをイエス様の証人として世の只中に遣(おく)り出されたのです。
Bさらに聖霊は、弟子たちから恐れを取り除き、勇気と知恵を与えられたことです。
イエス様が天に帰られた後、ペンテコステまでの10日間、弟子たちは、イエス様に命じられた通りに、エルサレムから離れずに、聖霊の「力を受ける」(1:8)という神様のお約束を待っていました。しかし、弟子たちのイエス様に対する関心と期待は「イスラエルのために国を再興してくださる」(1:6)ことにありました。このことを考え合わせると、弟子たちは、復活のイエス様にお会いする前の状態を幾分なりとも引きずっていた、すなわち、弟子たちは「ユダヤ人を恐れて戸をしめていた」 (ヨハネ20:19)ことが想像できます。ところが、聖霊に満たされたとき、弟子たちは、聖書(旧約)から正確に語り、神様とイエス様から聖霊が注がれたこと(2:33)、イエス様が神の子であること、イエス様が復活されたことを力強く証します。
そればかりではありません。ユダヤ人を恐れずに、神の子であるナザレ人イエスを十字架につけたのはあなた方であるとはっきり言ったのです。聖霊は、弟子たちから恐れを除き、勇気と知恵を与えられたことです。
私たちもこの@〜Bに現れた聖霊をもう一度しっかり覚え、私たちが、今、聖霊のお働きのただ中に生かされている平安を受け取ってまいりたいと願う者です。
2、次に、私たちが受けた「洗礼」と「聖霊によるバプテスマ」について、さらに、ペンテコステの出来事との関連を覚えたいのです。
イエス様は、天に帰られる直前、弟子たちにこう言われています。「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(1:5)。「聖霊のバプテスマ」は正確には「聖霊によるバプテスマ」です。「ヨハネの水によるバプテスマ」は、“悔い改めのバプテスマ”です。 それは、水によって罪人の死を葬る、水葬の儀式です。しかし、水による儀式は、人の罪が贖われ、救われたという神様からの保証はないのです。「聖霊によるバプテスマ」は、神様が悔い改めを受け入れ、救ってくださったことの神様からの保証の出来事です。(エペソ1:13,14。今日の「招きの言葉」)
イエス様もヨハネのバプテスマを受けられます。イエス様が「水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:10,11)。これが洗礼であり、「聖霊によるバプテスマ」です。
イエス様を信じるとは、このイエス様とひとつに結びつけられることです。ですから「聖霊によるバプテスマ」は、イエス様を信じるすべての人に与えられるのです。これがペンテコステの出来事です。
私たちが受けた洗礼は、イエス様がヨルダン川で受けられた出来事と同じであることがわかります。私たちもイエス様を信じ、結びつけられて「水によるバプテスマ」と「聖霊によるバプテスマ」を受けたのです。私たちは洗礼の恵みをもう一度かみしめ、洗礼の祝福と喜びを新たにし、神様の前に生きたいと思います
3、最後に、ペンテコステの出来事が起こされた時には、どういう意味が込められているのかをもう一度覚えたいのです。
聖書は、旧約預言者ヨエルのことばを引用します。「終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ」。“終わりの日”というのは、“終わりの時”と大変近い関係にあります。“終わりの日”というのは、私たちすべてが神様の前に立って審判を受ける日ですが、この日は、いきなり来るのではなく、神様はこの日のために準備する期間を備えられます。これが、“終わりの時”です。そして“終わりの日”はいつ訪れるか分かりませんから“終わりの時”の中には、“終わりの日”がいつも緊張というかたちであるのです。ですから、この二つのことは、違いがありながらも、同じように考えられてきました。そして、“終わりの時”はイエス様がこの世に来られた時から始まったのです。そして、聖霊もまたイエス様によって“終わりの時”の始まりに降り、注がれたのです。これがペンテコステです。
“終わりの時”は、2000年前に始まり、今の時も“終わりの時”の中にあります。私たちは、“終わりの日”が、いつ来てもよい時に生きているのです。私たちには、イエス様の福音とペンテコステの聖霊が与えられています。私たちは、この緊張と恵みの中にあることをペンテコステの日にあらためて覚え、聖霊に導かれてイエス様である福音をかたく信じ、福音にとどまり続け、福音を証しつつ“終わりの日”を待ち望みたいと願う者です。 以上。 |
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