第十の段落では、苦難の中にあって、尚、神を仰ぎ、私を造られた神が私を生かして下さると信じて、動揺しつつも心を鎮め、自分を見つめる思いが歌われていた。ところが第十一の段落は、一転、激しく動揺する思いがほとばしり出る。偽りをもって中傷する者の迫害が頂点に達し、神の助けは最早期待できないのか、と思う程に苦悩している。「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。」(81節)「みことば」を待ち望んでも、現実の助けはまだ実現してはいなかった。しかし、それでも「みことば」を待ち望む!と、心を注ぎ出していた。
1、「私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。『いつあなたは私を慰めてくださるのですか』と言っています。」(82節)助けはいつ来るのか、慰めはまだか、と訴える目は、今や疲れを覚えてうつろでさえあった。けれども、「たとい私は煙に中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません」と(83節)、どん底にあっても、「みことば」が私の拠り所ですと告白した。水を運ぶため、またぶどう酒を入れるための皮袋は、家の中につるされており、古くなると煙やすすで汚れ、煤けていた。その悲しげで淋しげな皮袋に、自分の惨めさを重ね合わせていたが、そんな苦難の中でも、私は尚も神を待ち望むと、言い切るのである。
彼は決して絶望しなかった。自暴自棄にならず、周りの人を攻撃することもせず、神の救いを慕い求め続けた。そして神の「みことば」を待ち望んだ。けれども、彼が望んだ助けは、直ぐには来なかった。そのような時、人はどんな思いになるのか。待てど暮らせど状況は変らず、かえって悪い方へ悪い方へと進む時、「もう限界!もう耐えられない!」とばかり、神を頼るのを止めようとするかもしれない。「あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。高ぶる者は私のために穴を掘りました。彼らはあなたのみおしえに従わないのです。」(84〜85節)迫害は容赦なく襲い掛かり、待ち伏せの穴は幾つも掘られていたので、死を迎える前に、神の助けが来るようにと願わずにおれなかったのである。
2、「あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください。」(86節)どんなに偽りによって苦しめられたとしても、「私は、神さま、あなたの真実を待ち望みます。あなたの助け、あなたの救いを待っています」と、必死に叫び続けた。その叫びは「彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした」と続く。(87節)求めが切実であればある程、神の「仰せ」を求め、また神の「戒め」を握って、離さなかった。苦しみ、喘ぎ、もがき、そこから抜け出そうとしたが、徒にじたばたするよりは、神が見守り、手を差し伸べて下さる時を待とうとしたのである。この態度、このような生き方を、私たちは見習うことができるだろうか。
そして、この段落も迷うことなく結ばれる。「あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります。」(88節)私が生きているのは、神が私を生かして下さるから。人がどんなに私の命を貶めようとしても、私の命は神の手の中にあると信じるので、私が心を配るべきは、神のことばを守ること、ひたすら神の教えに聞き従うことと、心が定まるのである。今、目の前に神の助けがなくても、また神の救いがすぐ近くにあると期待することさえできなくても、それでも神の約束のことばを信じ、神の助けが来ることを待ち望んだ。神を信じるので、決して絶望することがなかった。神の助けを待ち望んで、耐え難い苦難を忍ぶことができたのである。
3、この段落は、詩篇119篇の中で、最も激しく苦脳する心が歌われている。自らの苦境を「煙の中の皮袋のよう」と喩えている。家の中につるされた皮袋が煙ですすけ、もう一度使うには古びて、最早役に立たなくなったように見えたのであろうか。それほどに惨めな思いをしていたと想像できる。それでも、拠り所は「神さま。あなたのことばです。あなたのおきてです」と、揺るがなかった。「私はあなたのおきてを決して忘れません。あなたの助けを待ち望みます」と、ぶれることはなかった。神がご自身を待ち望む者をお見捨てになることはないと、心から信じる信仰によって、この人はいっそう神を待ち望む者となっていたのである。
待ち望むことは、果たして容易いことであろうか。それとも難しいことなのか。「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。」「私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。・・・」身体全体で震えるように、みことばを慕い求め、神が慰めて下さるのを待ち望んでいた様子が伺える。必ず神が手を差し伸べて下さると信じていたのである。けれども、神からの救いは、必ずしも直接的でないことも知っていた。神を信じて、自分が今現在を生きることの大切さを見失うことはなかった。だから、神に祈り、神の助けと救いを待ち望むのである。自分に言い聞かせるようにして・・・・。(※詩篇62:1〜8)
<結び> 神を信じる信仰において、「待ち望む」ことはとても大切な一面である。私たちは、実際に一生の間、多くの場面で「待ち望む」ことをしているからである。ぼんやりと時間を過ごしているのか、それとも、はっきりと神の御手を意識して時を過ごすのか、目の前の出来事をぼんやりながめるだけなのか、神が働かれるのを待ち望むのか。今、人生の苦しみの最中にあるなら、神が道を開いて下さるとはっきり願って待ち望むことが大事である。特別の苦しみがなくても、日々の生活において、必ず神に期待し、何かを待ち望んで私たちは生きているのである。目の前の小さなことにも、祈りによって神を待ち望み、日々大きな助けと導きを得る人は、何と幸いなことか。(※息子の病を癒してほしいと願った百人隊長は、主イエスに、「ただ、おことばをください。・・・」と願って聞き入れられた。マタイ8:5〜13)
困難の時こそ、神を「待ち望む」ことによって、耐えることができる。しかし、楽しみも喜びも、神を「待ち望む」ことを通して、失せることのない確かな喜びに導き入れられるのである。この世の望みは、いつの日か消え失せる。しかし、イエス・キリストを救い主として遣わして下さった神を信じ、この神に頼る望みは消え失せることはない。この世で耐えられない苦しみに遭っても、神が生かして下さることを喜び、この神に任せることができる幸いは測り知れない。「あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります」と、私たち一人一人も、神を待ち望み、この詩篇の記者とともに歌うことができるなら幸いである。
私たちの教会は、この地上にある限り、神を待ち望んで歩み続ける決意を堅くしたい。様々の試練をくぐるかもしれない。しかし、所沢「聖書」教会の名の通り、どんな時も、「私はあなたのみことばを持ち望んでいます」と祈り続ける教会であることを導かれたいものである。
|
|