礼拝説教要旨(2011.03.20)
子どものように神の国を受け入れる
(ルカ 18:15〜17)
 信じられないような大地震と大津波、それに原発事故と続き、私たちはこの一週間、心の安まらない日々を過ごした。被災地の実情を知らされるにつれ、そこにいる人々や復興のために労する人々のため、祈ること、助けの手を伸べることの必要を痛感させられる。日本中、いや世界中で祈りがささげれるている。私たちは、この天地を造られ、これを治めておられる神を信じている。この神の御手の業を待ち望み、最善を成して下さる神が、被災地の人々を支えて下さることを祈りつつ、私たち自身の心の内を整えていただけるように、今朝もみ言葉に耳を傾けたい。※東北・関東大震災:3月11日午後2時46分

 主イエスは、弟子たちだけでなく、教えを聞く全ての人々に向かって、自分の心の内側を探ること求めておられた。そして、神は人の心の内を見抜いておられること、それ故に、神に義とされるのは、神の前に心を低くする人である、自分の罪を認めて、神のあわれみにより頼む人である、と明言された。そのように教えておられた時のことである。「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。」(15節)主イエスの周りには、いつも多くの人々が集まり、それぞれ病気のいやしを求め、また教えを聞こうとしていた。そのため、今エルサレムへの途上にあって、かなりの緊迫感の中で人々の求めに応えるのに、弟子たち自身はいろいろ心配りをしていたようであった。

1、人々が幼子たちを、イエスにさわっていただこうとして連れて来たのは、祈ってもらうためであった。その当時、生後一年になる幼子をラビのもとへ連れて行き、手を置いて祈り、祝福してもらう習慣があった。そのために人々はイエスの元に、幼子を連れて来たのである。弟子たちが、叱ったのは、その行為をとがめてというより、その時の事情を考えてのことであった。忙しさと緊迫感の中にある主イエスを、これ以上煩わせないように・・・と考えたのであろう。人々の行為を責めたり、幼子たちを軽んじたわけではなかった。けれども、弟子たちのしたことは、主ご自身の思いとは違っていた。

 「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(16節)マルコの福音書によると、弟子たちに対し、主イエスは「憤って」、この言葉を語っておられる。そして、「子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(10:14〜16) 主のみ思いは、「神の国は、このような者たちのものです」にあり、幼子たちも、確かに神の国に入れられる者、間違いなく神の国に入る人である、ということにあった。大人たちの責任は、子どもたちを主の元に連れて行くことにあり、決して妨げてはならないのである。特に、自分ではまだ歩けない「幼子=嬰児」は、親なり、大人に連れられて行く他なく、大人の責任は極めて大きいことになる。

2、主は、大人たち、そして親たちの責任の大きさを告げるとともに、次のように語られた。「『まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』」(17節)大人たちは、子どもたちが招かれている事実を、はっきり必要があった。それだけではなく、自分自身のこと、自分がどのような者であるかを、より明確に知るようにと迫られた。ここでも、自分を大人と誇ったり、何でも知っているとばかり、自惚れる愚かさが戒められている。神の国の到来のこと、また神の国に入ること、それらは、神を信じる者たちの信仰に関わることである。神を信じて救われるのか、やがて確かに神の国に入れるのか、救いの完成を待ち望む人々にとって、やはり大きな関心事であった。その究極の救いを待ち望む信仰に関して、「子どものように神の国を受け入れる者」であるか、そうでないか、その違いは致命的である、と主は言われたのである。

 「まことに、あなたがたに告げます。」この言葉は、主が大切なことを語る時に使うもので、これから言うことを、しっかり聞きなさい!と、促しておられた。主はご自分が神であり、全ての人の心の内を見抜くことができる、だから、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ・・・」と、厳しく語っておられた。「子どものように」とは、子どもは生まれながらに純真で、素直で・・・とかの単純なことではない。生まれながらに全ての人は、神に背いており、神なしで生きようとする罪がある事実を、決して忘れることはできないからである。従って、大人に、「子どものように」なることを求めているのではない。「子どものように神の国を受け入れる」こと、それは親子関係における絶対的な信頼、また絶対的に依存していること等を指している。

3、「神の国を受け入れる者でなければ・・・」と言うのは、子どもたちが、親から何かをもらう時の、受け入れ方にヒントがある。何かをもらう時、大人はあれこれ考え、特に利害関係をたちまちのように計算するのに比べ、子どもは、実に率直に受け入れるものである。神が差し出して下さるものに対して、疑わないで受けようとする、その信頼の揺るぎなさを失わないこと、それを教えている。神の国、神のご支配、そして神の国の教え、それらを神からの尊い贈り物として、喜んで受け入れることの大切さのことである。例えば、祈りを学ぶのに、大人より、幼い子どもが祈りを身に着けることの確かさがある。それはどんな宝より貴いものとなる。また大人が祈るとすれば、「天のお父さま」と祈れるのは、子どものように神の国を受け入れる人だけである。主イエスは、子どものように心が開かれていること、そのことを求めておられた。

 親子関係における「絶対的信頼」、そのような「信頼」に基づく事柄を、神と人との関係において当てはめて考えること、それによって、私たちの信仰の在り方が浮き彫りにされる。父なる神の権威を、恐ろしいものと考えるのか、それとも、人間の親子関係に見られる、揺るぎようのない信頼関係を覚えながら、神に信頼する信仰に生きることに気づくのか、主イエスは、人々に問い掛けておられる。神の国に入る人、神の救いに与る人は、何があっても、神への信頼を失わない人である。失敗をして、心くじけることがあっても、また立ち上がって、神の元に返る人である。恥ずかしいとか、もう神の前には出られない・・・とは思わないで、それでも神の前に立ち返る。それ程に神に頼り、神を信頼する、そんな特権が神の国に入る人には約束されている。

<結び> 主イエスは、神の国に入る人とはどのような人であるか、順次明らかにしておられた。前の段落では、自分で自分を義しいとする人でなく、砕かれた、悔いた心の人であること、「心を低くする人」であると語っておられた。心を低くしてへりくだる人であると。それとほぼ同じことを、子どものように神を受け入れること、と言い換えておられた。けれども、いずれであっても、私たちは自分で自分のことを評価することはできない。もし自分で、心を低くしている、子どものようにしていると思い、それで神の国に入れると安心するなら、その時、自分で自分を義とする誤りを犯すことになる。

 私たちは、この教えを語られた主イエスを、やはり仰がなければならない。主イエスの教えを、「子どものように」受け入れること、そのような信仰の歩みを繰り返し、また積み上げること、それによって、私たちの信仰も実を結ぶと信じることである。決して神を疑うことなく、全幅の信頼を寄せ、信仰の生涯を生き抜くことを導かれたい。私の罪の身代わりとなって、十字架で死なれた主イエスがおられること、その方の教えをしっかり心に刻んで、この地上の日々を生き抜かせていただこうではないか。困難な課題が迫るかもしれない。悲しいことも襲う。しかし、喜びもまた日々新たである。主を見上げ、主と共に歩む日々こそ幸いと証しさせていただきたい。(イザヤ40:28〜31、41:9〜13)