十字架の死から三日目によみがえられた主イエスは、エマオの村に向かう二人の弟子の前に現れ、信じられない者を信じる者に変えて下さった。喜んでエルサレムに戻ると、十一使徒とその仲間たちが集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていたので、二人もまた自分たちの経験を話し、「イエスだとわかった次第」を語り、イエスの復活を信じる喜びを分かち合っていた。その場にいた、主イエスにまだお会いしていない弟子たちは、何とも言えない複雑な思いをしていたに違いなかった。
1、そうしている所に、「イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。」弟子たちは、まだ復活の喜びに包まれていたとは言えず、十分に事態を飲み込めない状態であった。周りの人々の目を恐れ、ひっそりと閉じこもっていた時、主イエスは弟子たちのいる所に現れ、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか」と語り掛けられた。(36〜38節 ※ヨハネ20:19「平安があなたがたにあるように。」)そして「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」と語って、ご自身が、霊でもなく、幻でもなく、身体を持ってよみがえられたことを示された。(※エゴー・エイミ・アウトス:「それはわたしです」、「わたしは神です」との主イエスの宣言の言葉。ヨハネ18:5、8、「わたしは生きて、ここにいる!」)
その場には何人位の弟子たちがいたのだろうか。15人位か、それ以上の弟子たちがいたのか。少なくとも三人はもう既に主にお会いし、復活を信じる者になっていた。女の人も混じっていたなら、彼女たちも主イエスの復活を信じる者となっていたが、まだ信じられず悶々としていた者たちの方が多かったと思われる。イエスが真ん中に立たれた時、弟子たちが「驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」のは、それでも信じられないで驚いている、戸惑いの反応であった。現実のこととは到底信じられなかったのである。それで主は、ご自分の手と足を見せ、「まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい」と、弟子たちに語られた。主イエスは、弟子たちの恐れや戸惑いをを思いやるようにして、ご自分の手と足を示しておられたのである。(39節)
2、ところが弟子たちは、「うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか』と言われた。」(41節)嬉しいこと、けれども単純には信じられないこと、それがイエスの復活であると、聖書は繰り返し語っている。人の証言を聞いても、そして復活の主が目の前に現れても、それで信じられるわけではなかった。弟子たちの心はどこまでも頑なであった。けれどもその頑なさは、彼ら特有のものではなく、全ての人に共通する頑なさである。そのような頑なさをほぐすため、主は、彼らと一緒に食事をされた。(42〜43節 ※その場にいなかったトマスに対しては、八日の後、トマスのいる所に現れて、彼を信じる者に変えるために語り掛けようとされる、それが主イエスのお心であった。)
弟子たちが復活を信じる者となるために、主ご自身は何度でも、その姿を現し、彼らを復活の証人とするために、手を差し伸べておられた。それに加えて、イエスの復活を確かに信じるためには、聖書から、キリストの十字架の死と死からのよみがえりについて、はっきりと知ることが不可欠なことであった。そのため、主は、改めて聖書がキリストについて示すことは、必ず全部成就することを彼らに説き、聖書を悟らせるために彼らの心を開かれた。(44〜48節)聖書全体は、キリストの十字架の死と死からのよみがえりに、その焦点が当てられているのである。十字架と復活を根拠として、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことになるのである。
3、主イエスは、改めて聖書全体は「わたしについて」書かれていると、弟子たちに明言された。予め話したように、十字架の出来事があり、三日目のよみがえりがあり、今こうしてあなたがたの前にいるのは、あなたがたを「これらのことの証人」とするため・・・と語られた。主イエスが死人の中から復活されたことを証言する者を、確実に起こして世界へと送ること、この壮大な働きを聖書全体が説いているというのである。弟子たちは、一度だけの説き明かしで、それらの大きな神のご計画を理解できたわけではなかった。主は、繰り返し大切な教えを語られた。エマオで二人の弟子に語り、エルサレムで十数人の弟子たちに語って、彼らを遣わそうとなさった。(※ヨハネ20:21〜23)更に天に昇られるまでの40日に渡り、度々現れ、弟子たちを励ましておられた。
(使徒1:3〜11)
復活された主イエスを、はっきりと信じる信仰に導かれた人、「まさしくわたしです」と語られた主にお会いした人が、主イエス・キリストの復活の証人となるのである。けれども、主にお会いしたからと言って、そのまま出て行くようにはお命じにならなかった。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(49節)聖霊が注がれ、上よりの力をいただくまで、待ちなさい、と言われた。復活の証人は、神ご自身が送り出して下さるのであって、証言を聞いて新たに信じる人もまた、聖霊の働きによって信じる者に変えられるのである。主は、聖書の証言を通して「まさしくわたしです」と語り掛け、聖霊に導かれることによって「信じる者になりなさい」と、私たちにも手を差し伸べて下さっているのである。
<結び> 主イエスの復活、よみがえりは、どんなに説明しようとしても無理な事柄である。世々の教会が、復活を信じて歩んで来たことが「不思議」である。私たちが信じていることも「不思議」で、主イエスご自身が私たちに現れ、「まさしくわたしです」と迫って下さったからに他ならない。それ故、私たちは自分の信仰を誇ることはできない。私たちの務めは、私を信じる者として下さった神をほめたたえること、神に感謝することである。そして、最初の弟子たちと同じように、上よりの力をいただいて、私たちも主イエスの復活の証人として用いていただくことである。
見ずに信じる幸いを得た者として、私たちも主イエスを救い主、キリストと信じて生きるなら、私たちの日々の歩みが復活の証人としての歩みとなる。この地にキリストの教会があること、その教会に私たちが連なっていることが何よりの喜びである。確かに復活の証人となっている事実を心に刻み、そして、尚もその証人が増し加えられることを祈り求めて歩みたい!
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