パウロは、手紙冒頭のあいさつもそこそこに、なぜ、ガラテヤの教会に感情を高ぶらせ、「もう一つ別に福音があるのではありません。」(7節)と言い、敵対する者にの「ろわれるべき」(8,9節)とまで言ったのでしょうか。このことを手掛かりにして“福音はただひとつである”ことを3つの点から確かなものにしたいと思います。
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1、まず最初に、パウロは、ガラテヤの教会がそんなにも急にほかの福音に移っていくことに驚いています(6節)。たしかに乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしていることによるものですが(7節)ガラテヤ教会の信徒たちの信仰の在り方にも問題があったでしょう。パウロは、この手紙で神の恵みを無にし、キリストの死を意味のないものにしようとする敵対する者(2:21)を赦さないとともに、愛する信徒たちを厳しく指導し、重ねて励ますことをめざしたのです。
今日の私たちの教会には、これほどの敵対者が忍び込むことはないのかもしれませんが、異端とされるキリスト教が、私たちの身近に布教を繰り広げている現実を私たちは経験しています。私たちが、「変えられた」福音を信じたり、また、福音を「変えて」伝えることがないために、福音とは何か。福音を信じるとはどういうことか。についてもう一度確認しておきたいと思います。
福音。「良いお知らせ、喜ばしいおとずれ」とは、イエス様ご自身です。イエス様のすべてが、「良い知らせ、喜ばしいおとずれ」、福音です。
“イエス様のすべてが、福音”であることの中身はこうです。a)まず、イエス様は、神様から与えられた、神様からの出来事です。神様は、神の子を人の姿で、私たちの救いのために、遣わされ、私たちの地上に来られたのです。b)次に、イエス様の十字架と復活です。パウロの証言の通りです。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)。そして、c)復活の後、イエス様は、天に帰られ、父なる神様の右につかれ、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ヘブル7:24,25)
さらに、イエス様を信じるとはどういうことか、についても覚えたいのです。パウロは、
2章の終りで自分の信仰告白としてこう言っています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(20a)。パウロは、イエス様を信じて、イエス様とひとつにつなぎ合わされ、結びつけられて神様の前に生きている自分を証しています。さらにパウロは、ローマ人への手紙では、こう記しています。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(6:5)このことが、イエス様を信じるということであり、福音を信じるということなのです。これ以外の信じ方は、イエス様の福音を変えるもので、パウロは赦しません。
2、次にパウロは、敵対者たちが、イエス様を信じるだけでは義とされないと宣べ伝えていること(2:21)に赦しがたいものがあったことです。
パウロは、同じガラテヤ書の中でこう言っています。「・・・人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。・・・なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(2:16)。イエス様を信じることによってだけ義とされること、これが福音なのです。パウロは、それ以外の福音があるかのように教える者があれば、福音に反逆する者であり、その者はのろわれるべきだとまで言っているのです。
当時、ガラテヤ教会には、キリスト者であっても割礼を施し、律法を行うべきであるとするユダヤ人のキリスト者、そしてユダヤ人のキリスト者に揺り動かされる異邦人からのキリスト者がいました。パウロは、この信徒たちに厳しく悔い改めを迫り、正しい福音信仰をくり返し教えるためにこの手紙を書いたことを知っておきたいと思います。それとともに、神様が私たちを選び、引き寄せてくださらなければ、私たちが、イエス様を信じることは、決してできない、霊的な出来事であることも合わせて覚えてまいりたいと思います(3:3)。
3、そして、パウロ自身、" 福音は、ただひとつ"であることを強く前提としている故に厳しい言い方をしていると思うのです。
ダビデは、詩篇19編でこう祈っています。「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」(12節)。
生ける神の前に生きる、霊の人ダビデは、自分には隠れた罪があることを感じ取っています。しかも、神様はその罪をも見られ、決して赦されないことを覚えています。ここに、神様が、罪に対して絶対的な厳しさをもって臨んでおられる現実を見ます。また、私たちが、罪を覚えることの限界、私たちの罪の深さの現実を覚えます。この現実から、私たちを救うことが出来るのは、誰でしょうか。人となられた神の子、ただひとりの義なる方の御子、イエス様以外にはないのです。パウロが「もう一つ別の福音はないのです。」という時に、この現実をも踏まえて、福音を変えてほかに福音があるかのようにする敵対者の罪を明らかにしながら“福音はただひとつ”と言っていると思えるのです。
私たちは、“福音は、ただひとつ、もう一つ別の福音はない”と心から言えるでしょうか。神様の戒めを自力で守り、善い行いを積めば、イエス様、イエス様とだけ言わなくとも義とされると、心のどこかで、少しだけでも思っていないでしょうか。先ほどのダビデの祈りを自分の祈りとしているでしょうか。もう一度自分の胸に手を置いて省みたいのです。そして私たちの信仰をさらに福音であるイエス様に集中することが出来るように祈ってまいりたいと願う者です。
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最後に、Tコリント1:30を読みます。
「・・・しかし、あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」 以上。 |
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