礼拝説教要旨(2010.04.11)
イエスだとわかった
(ルカ 24:13〜35)

 イエスが復活された日の朝、数人の女たちが墓に着いた時、空っぽになった墓を前に「途方にくれる」しかなかった。御使いが「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。・・・」と告げても、それでイエスの復活を信じられたわけではなかった。彼女たちは、御使いに促され、「イエスのみことばを思い出した」ことによって、復活を信じる者となっていった。そして、そのことを使徒たちに告げたのであった。

1、「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(11節)イエスの復活は、信じられないこと、とんでもない話・・・というのが、その最初の朝、そのことを知らされた人々が受け留めた理解であった。ペテロは立ち上がって墓に行ったとは言うものの、復活を期待したからではなかった。使徒たちを始め、弟子たちの誰一人、イエスの復活を信じてはいなかった。そのことをルカ福音書は記している。そして、信じなかった者が信じる者に変えられる、その確かな事実を書き留め、今日の読者である私たちにも、同じ信仰への道があると告げるのである。イエスが復活されたその日に、信じられない「ふたりの弟子」に、イエスご自身が近づかれた・・・と。(13〜15節)

 二人は、エルサレムからエマオという村へと向かっていた。特別な用があったのか、それともエマオに自分たちの家があったのか、安息日が明けたので道を急いでいた。受難週の第一日からずっと、エルサレムに居たとすると、その間の出来事は目まぐるしく、イエスの十字架の衝撃に追い討ちをかけるように、墓が空になってしまったこと、しかもイエスはよみがえられたと知らされ、心は騒ぐばかりであった。二人は散々、あれこれ思い出しながら話し合い、論じ合っていた。その二人に主イエスが近づき、「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか」と尋ねられた。(16〜17節)イエスだとは気づかない二人は、ここ数日のエルサレムでの出来事を知らない人がいることに驚きながら、得々と説明し始めた。(18〜21節)

2、「ナザレ人イエスのことです。・・・」彼らは、イエスを「預言者」と信じていたこと、「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました」と、旧約聖書が約束するメシヤであると期待していたことを話した。それなのに十字架につけられてしまい、「その事があって三日目にないますが・・・」と。そして今朝からのこと、もう何と考えたらよいのか、戸惑うことが起っていると、空になった墓のこと、イエスはよみがえられたとの知らせのこと、「イエスさまは見当たらなかった」との証言のことを一気に語った。(22〜24節)これを聞いておられた主は、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」と嘆かれた。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(25〜26節)十字架の死こそメシヤの受ける苦しみだったのである。そのことに思い至るように・・・と願われたのである。

 約束のメシヤが、受難を経て「彼の栄光に入る」ことを理解するなら、よみがえりのこと、十字架の死からの復活のことに思い至る筈であった。そのことがはっきり分るように、主は、「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(27節)聖書全体は、主イエスの十字架の死と、死からのよみがえりのことに、その焦点が当てられているのである。エマオに近づいた二人は、このままではイエスと分かれ難くなっていた。先へ行きそうな様子の主を、強いて招き入れ食卓を共にした。食卓に着かれたイエスが、パンを取り、祝福し、裂いて彼らに渡されると、その様子を見ていた二人の目が開かれ、ようやく「イエスだとわかった。」それは二人には、驚きの瞬間であった。しかし、胸の高鳴る喜びの時であった。(28〜32節)

3、主が、その食卓で主人のように振る舞われたこと、その振る舞いを目の当たりにして、はっきりと「イエスだとわかった」のである。それまでも目は開いていた筈であるが、心の目は霞んでいた。悲しみとともに、自分勝手な思い込みで、聖書の約束を取り違えていたからである。けれども丁寧に説き明かされる聖書の言葉に、「心はうちに燃え」る経験をさせられた。じわじわと高鳴る思いがあり、ハッとさせられ、遂に、よみがえったイエスが目の前におられる、との確かな確信に辿り着いたのである。その瞬間、イエスの姿は見えなくなったが、二人の燃える思いは決して消えることはなかった。エマオに泊まる筈であった予定を取り止め、二人はエルサレムに戻った。使徒たちとその仲間たちに語らないではおれなくなったからである。

 戻ったエルサレムでは、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と、主イエスの復活の事実が明らかになりつつあり、二人も喜々として道々のこと、パンを裂かれた時のこと語り、使徒たちを初め、弟子たちの間に復活を信じる信仰が、着実に根付き始めていたのである。主は、弱さと愚かさに打ちのめされていたペテロに対しては、殊更のように配慮しておられた。他の弟子たちの誰よりも先に、彼に現れ、彼を励まして立ち直らせようとされたのである。このペテロに加えて、さらに二人の弟子たちを復活の証人にしようと、エマオへの道々、彼らに聖書から説き明かし、食卓を共にする交わりを通して、信じる者に変えて下さったのである。一人また一人と、弟子たちを整え、造り変えるように彼らの目を開いて、「イエスだとわかった」人を増し加えておられた。復活を信じる人は、このようにして今に至るまで、世界中で起こされ、増し加えられているのである。

<結び> 主イエスが語られたことばを思い出すこと、それがイエスがよみがえられたその日、女の人たちが復活信仰に至る大切なカギであった。それに加えて、主イエスご自身がその人に現れて下さること、そして聖書の説き明かしをして下さること、それらが他の弟子たちがイエスの復活を信じるに至る決め手となっていた。こうして、常識では考えられない死人のよみがえりというイエスの復活が、弟子たちの間で確信されるようになっていった。

 今日の私たちには、直接主イエスが現れて下さるという形ではないが、聖書全体の告げている救いへの招きが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事に基づいていることを知る時、イエスご自身が私たちを「わたしのところに来なさい」と、招いて下さっていることを知ることができる。私たちの心も、確かに「うちに燃える」という経験をさせられる。私に近づき、私に声をかけ、私と共に歩んで下さる主イエスが、おられると知ったので、私たちも「イエスだとわった」のである。この信仰は、理屈だけではとても説明のしようがないものかもしれない。けれども、聖書を通して確かなものとされているのである。一層聖書に親しんで、主イエスの復活を信じる信仰の歩みを導かれたい!