礼拝説教要旨(2010.04.04)
復活信仰の不思議
(ルカ 24:1〜12)

 受難週の第一日にエルサレムに入城された主イエスは、宮で多くの教えを語り、遂に木曜日の夜、ゲッセマネで捕らえられ、夜を徹しての裁判によって死に渡されることになった。夜が明けて総督ピラトの前に引き出され、ピラトが無罪と認めたにも拘わらず、十字架につけられ息を引き取られた。その日が安息日であったため、埋葬は慌しく行われ、その一部始終を見届けた婦人たちは、安息日が明けるの待ちわびていた。香料と香油を用意し、改めて丁寧な埋葬をしたいと心待ちしたのである。

1、この婦人たちは、イエスとその弟子たちと行動をともにしていた「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たち」(23:35)であった。「マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤ」と、「彼女たちといっしょにいた女たち」(10節)もいたと記されている。三人だけでなく、数人の女の人が、「週の初めの日の明け方早く」、イエスが葬られた墓へと急いだのである。一晩中泣きはらした涙を拭って墓に向かったが、よみがえりを期待しての行動ではなかった。道々の心配は、果たしてあの大きな石を誰が動かしてくれるのだろうかと、決して希望の朝を迎えていたわけではなかった。(マルコ 16:3)墓に着いた彼女たちが見たのは、石がわきにころがしてあること、そして空になった墓であった。主イエスのからだはそこにはなく、彼女たちはそこに立ち尽くすしかなかった。(1〜3節)

 そこに二人の御使いが現れ、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。・・・・」と告げた。(4〜7節)主イエスが予め語っておられたことを「思い出しなさい」と、彼女たちの心を促した。主イエスは確かに、十字架の死を予告され、三日目の死からの復活を何度か語っておられた。一回目は弟子たちが正しい信仰を言い表わした直後(ルカ9:22)、二回目は変貌の山から下りた後(9:44)、そして三回目は、エルサレムに近づいた時(18:31〜34)。いずれの時も弟子たちはその意味を理解できず、聞きたくないことを聞かされた・・・と、耳を塞いでいたが、行動を共にしていた婦人たちも、その大切な予告を聞いていたのである。御使いはその「ことば」を「思い出しなさい」と語った。彼女たちは戸惑いながらも「イエスのみことばを思い出した。」(8節)「みことば」を思い出すことによって、復活を信じる信仰へ踏み出したのである。

2、悲しみも、そして戸惑いや恐れも取り除かれた婦人たちは、早速のように「十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。」(9節)最初は信じられなかったこと、「みことば」を思い出して信じたこと、恐ろしくて、何から話せるのか見当もつかなかったことを、少しずつ、順を追って丁寧に話し始め、口々に、主がよみがえられたことを話し続けた。(10節)。ところが、彼女たちの証言が熱を帯びてくると、反対に使徒たちの反応は冷めるのであった。「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(11節)婦人たちはどれだけ悲しく、やるせない思いをしたことであろうか。どれだけ真剣に語っても、無駄話、気のふれた人の妄言としか思えない、それが復活についての理解だったからである。

 それでもペテロは、立ち上がって墓に向かった。主を否むという大失敗したペテロは、どんな思いでこの日を迎えていたのだろうか。自分でどうするすべもなく、「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」との主のことばを頼るだけであったかもしれない。それさえ、死の前には虚しさばかりが迫っていたに違いない。決して勇んで立ち上がったのではなかった。恐らく、何かに促されるように墓に辿り着き、空の墓を確かめることになったのである。全てを支配しておられる神ご自身が、ペテロに手を差し伸べ、彼を立ち直らせようとしておられたので、彼は空になった墓と、そこに残された亜麻布、そして頭に巻かれていた布を見させられ、復活の主との出会いに備えさせられたのである。(12節 ※ヨハネ20:1〜7)

3、この時ペテロはもちろん、もうひとりの弟子も主イエスの復活を信じたわけではなかった。驚くばかりの出来事であるが、信じることはできなかった。婦人たちが信じて証言したとしても、だからと言って信じられることではない、それが死人のよみがえりである。人が常識的であればある程、復活信仰は不思議なこと、生ける神を心から信じていても信じられないことであった。(※パウロしかり)そのペテロが信じる者に変ったのは、復活の主イエスがペテロに現れて下さったからである。(34節)エマオの村へ急いでいた弟子たちが信じる者になったのも、復活の主イエスが現れ、二人に近づいて下さったからであった。大喜びしてエルサレムに戻った時、皆が集まっている所に主が姿を現し、「まさしくわたしです」と言われたのである。(25〜43節)

 弟子たちは皆、復活の主イエスにお会いして、復活をはっきりと信じる信仰へと導かれたのである。その信仰を一層確かにするのは、聖書のことばであり、主イエスが語られたことばであった。「復活が信じられない・・・」とは、何ら驚くことではなく、むしろ当然のこと、余りにも単純に信じられるとすると、そのことの方が注意すべきことである。聖書が教える信仰、そして主イエスの復活を信じる信仰は、あくまでも不思議なもの、常識では有り得ないことである。けれども至って常識的な人々が、その常識を覆されて信じるようになる、そのような信仰である。それは決して盲信的なものではなく、また妄信的なものでもない。至って理性的であり、常識的である。主イエスは自ら死からよみがえって、人に現れ、その人を復活信仰へと導き入れて下さるのである。

<結び> 主イエスがその人に現れて下さること、また主イエスが語られたことばを思い出すこと、この二つが、イエスがよみがえられたその日、弟子たちと婦人たちが復活信仰に至る大切なカギであった。空の墓を見ても、また人の証言をただ聞いても、とても復活信仰にたどり着くのは難しいことである。それ程に復活信仰に不思議は付きまとう。しかし、神ご自身が全ての人に対して、相応しく手を差し伸べておられる。そのことを私たちは感謝したい。ペテロに対して主は祈っておられた。エマオに向かう弟子たちには、主ご自身が近づかれた。婦人たちには思い出すべき「みことば」を示して下さった。その他の弟子たちには、皆がいる所に現れておられる。その後トマスに、更に多くの人の前に、そしてパウロの前に・・・。(コリント第一15:1以下)やがて多くの年月を経て私たち一人一人にも現れて下さったので、私たちも復活を信じる者となった。それは不思議としか言いようがない。しかし確かに信じて、復活の証人として歩ませていただいている。心からの感謝をもって、復活の証人が増し加えられることを願い、福音の前進のために祈りたい!